Comme la Loire...
文を書けども、下手の横好き
しゃべれども、流れは悪く
どうも、フランス語を集中的にしゃべった後に日本語の文章を書くと、節と節のつなぎがおかしくなる。
フランス語を集中的に書いた後は特に問題ないのだけれど。
たぶん、問題に気づいていないだけなのだろうけど。
まあいいや、れっせとんべ。
生徒さんたちと再会するごとに、「日常」が戻ってくるけれど、ここではあと少し、ほんの少し、旅行の余韻を楽しませてください。
今回の旅を一言で表すと「人」になる。
(-人-)ヒトねぇ・・・
なぜ人か。曰く。
新しい出会いがたくさんあったし、それが本当に嬉しい出会いだったことももちろんだけれど、それと同時に、それ程深く知らなかった方々をよく知ることができて、savoirが connaître になった。一人一人の新しい面を見ることができたのがすごく新鮮でした。あの人は、実はこんな趣味があったの!とか、この人は実はこんなにミニヨンだったんだ~とか、会話が楽しくて楽しくて仕方なかったです。
それに、もう随分知っているつもりでいたら、あらあら、それは私の作り出したイメージで、目の前の本物はもっと刺激的で面白かったり、意外だったり。だから、余計に大切になったし、もっと好きになっちゃった。
さて。
今回の旅行(に限らず毎度だけれど)で大活躍だったSちゃん。
改めて惚れ直しましたがな。
なにがって、まあ、どこまでもオテスに徹し、まかせとけ!とみんなを引き連れ、仕事をキャンセルし、さらに名演奏でみんなを唸らせ、目の下に隈を作ってドイツに発つ・・・本当に、友人として誇りの限りです。
もうちょっと、フランス語講師としての視点から賞賛させてもらいますと・・・
彼女のフランス語に、私は目から鱗が落ちました。
に、日本語に聞こえる・・・
いえ、決してSちゃんの発音がひどい日本語なまりとか、そういうわけではありません。
もう10年以上も在パリで、意思疎通に問題があるわけでもありません。100%フランス人は彼女の言うことを理解しています。
何が言いたいのかと言うと、説明するのがとても難しいのですが、彼女がフランス語をしゃべっている時と、日本語をしゃべっている時の「感覚」に、全くぶれがないんです。
彼女が
「Oui, je pensais à ça」 という時、私には「うん、そうだと思ったんだよね」と聞こえてしまうのです。
彼女に限らず、在ナント邦人の方々は皆さん普通にフランス語でしゃべるし、彼女以上に長年フランス語生活を送っているわけですが、彼らがしゃべっているのを聞いていると普通にフランス語に聞こえるのです。
こんなミステリアスな感覚は初めて味わいました。
彼女の日本語の心の声が、他の人よりも大きくてそれが私にはテレパシーのように聞こえてしまうのだろうか・・・?(それはそれで笑える)
けれど、フランス語でしゃべっている時は日本語では考えていないはずだし、いったいなんなんでしょう・・・と、一緒に居る間ずっと、実は密かにサーチしていたのでした。
これだ!という答えはいまだに見つかっていないのですが、手がかりになるものは見つけました。(ごめん、勝手にコバイにしちゃった)
Sちゃんはパリに住んでいる日本人らしからぬ(!)ところがあって、実は今も新潟に暮らしているんじゃないかと疑いたくなるような、フランスに旅行に来た日本人がほっとする空気を持っています。本人に聞いたら、それでも、昔は例の「同属差別」(Cf.パリ症候群)的な考えもあったりしたそうなのだけれど、今は本当に自然にパリの人で、日本人で、新潟の人で、Sちゃんなんです。どれもこれもが本当に自然。
そんなSちゃんの日仏語はもう完全にフュージョンしてしまっているのかもしれません。
しかも、独特のユーモアを持って、融合しているようなのです。
私は、普段考えている時や書いている時、聞いている時にはそのままフランス語にずるりと入っていけるのですが、しゃべる時は今も昔も「どっこいしょ!」とやらなければだめで、démarrerしてからもしばらくは言葉を失ったり、探したりしてしまいます。いったんモーターが回りだしたらあとは大丈夫なのですが、必ずエンジンをかける時にばすんばすんとエンストを起こす、その原因が彼女のおかげでわかりました。
常に、「正確に発音しなきゃ!」とすごい意気込んでいたんだと思います。それで却って力んでLとRを間違えたり、BとVを間違えたり(まるでファミコンのコントローラーのようだ・・・)、つっかかったり、ひっくり返ったりしてたわけです。
もっと自然に、日常でフランス語を!のスピーカーだった私が、実は一番だめじゃん!
うーん、確かに、生徒さんが面食らわないように、かなりフランス語をセーブしていたところもありました。
正しくなければ、しゃべらないほうがよいとも思ったり。でも、それではいかんのです。
そんなわけで、今後は「Travailler plus pour gagner plus*」の精神で(笑)、身体にフランス語を浸透させて行こうと決心したのでした。
* Travailler plus pour gagner plus はサルコジのスローガン。「もっと働いてもっと稼ごう」。寝言は寝て言え的。
フランス語の手紙、文末のあいさつ表現
この内容はnoteの記事でお読みいただけます(一部有料)
- 教育機関、例えば語学学校や大学とコンタクトをとって資料請求するとか、点数の不服を申し立てるとか、間違いの訂正請求とか、その他の願書。
- 公共料金、税金、電話・携帯、銀行などのサービス機関とのコンタクト
- アパートの大家とか、寮の事務所など
- ネットで買い物をする時のやりとり
- その他、申し込み・応募一般 (クラブ、サークル、イベント関係、etc.)
「敬具」まで行かなくても〆の挨拶は欠かせないもので、そのパターンたるや、大変なものです。
Dans l'attente de votre réponse, je vous prie d'agréer, Madame, [Monsieur,] mes salutations distinguées. (お返事を心待ちにしつつ、敬具)
なんてのもよく目にしますよね。
agréer は同意する、受け入れるという意味の動詞なので、「私の尊敬の意をお受け入れ下さい」という言い方で「敬具」を表します。代わりにaccepter(受け入れる、認める)でも同じ意味になります。
なるべく早めに幾つかのパターンをストックしておくと便利なのですが、人によっても千差万別で、いったいどんな関係のときにどんな言葉を使えばいいのか???となるわけです。そこで、使える表現を関係ごとにリストアップしてみました。
手紙・メールの文末の挨拶
1. 宛先リストのトップは「大統領閣下」
2. 親しい友だちへのあいさつ
3. 目上の人、ビジネス関係など、一定の距離がある場合
4. 尊敬の気持ちを込める場合
5. 様々な表現を学ぶには...
続きは noteの記事でお読みいただけます(一部有料)
フランスセミナー ~ライフスタイルから知るフランス~
ひさびさ空シリーズ。
Le bleu fulgurant pique mes yeux.
Un petit air d'automne...
免許の更新に行ったら新しい免許証に「中型車は中型車(8t)に限る」というスフィンクスの謎かけのような文が記載されていました。
お陰で、免許を見るたびに笑ってしまいます。中型車は中型車に限るって。「かもめはかもめ」じゃあるまいし。
新学期です。La rentréeです。
「新」なのに、なんで「再」を示す「re」が付いているんだ?と、以前から不思議だったんですが、「9月(日本では4月)になったら新年度」というシステムは繰り返すからだと考えたらよい。と、「和文仏訳のサスペンス(白水社)」には書いてありました。
この本は、久々に大興奮したのでそのうちここでも取り上げたいと思います。
本日はおしらせ。
9月から始まる中地区公民館の国際理解講座「フランスセミナー ~ライフスタイルから知るフランス~」
では、料理、生活、福祉などさまざまな視点からフランスにアプローチしてみよう、ということで4人の講師による講演会が行われます。私は4回目を担当させていただくことになりました。フランス語学習とナントでの生活についてがテーマ。
最終回は留学生との交流があるそうなので、生徒の皆さんはぜひ腕試しに!
水曜日 19:00~20:45 全5回
●日程●
第1回 9月10日 「フランスのスローフード ~フランスで出逢った料理」
講師 中島 有香さん(料理研究家)
第2回 9月17日 「フランス風セカンドライフの楽しみ方 ~福祉国家フランスの社会と生活」
講師 加藤 智章 さん(新潟大学法学部 教授)
第3回 9月24日 「働くママに優しい国 ~フランスにおけるワーク・ライフ・バランス」
講師 Chloe Viatte Hemmi さん(新潟大学人文学部 非常勤講師)
第4回 10月1日 「フランス・暮らしの中のことばと文化 ~ナント・ステイとフランス語学習」
講師 酒井 麻里 (e-cor(エコール)フランス語コミュニケーション教室 主宰)
第5回 10月8日 「留学生とティータイム」 新潟大学 フランス人留学生のみなさん
参加費●実費¥100円(第5回目のお茶菓子代)
申 込●電話: 025-250-2910
詳しくは 中地区公民館のサイト→(Click!)
会 場●下山コミュニティハウス 新潟市東区下山1丁目121番地
参加人数が多くなると抽選になるのでどうぞお早めに・・・
10月から復活予定のNHK文化センター フランス文化教室「パッション!フランス」→(Click!)でも恒例(?)の「フランス知っとるけ?10の質問」も、セミナー用にフランス語についての10の質問を用意しました。普通のフランス語教室では教えてくれないフランス語を伝授いたします。お楽しみに~
10月期のNHK文化センターは、自然科学博物館で星について学ぶ天文講座を受けたい・・・講師は講座を受けちゃいけないんだろうか?星はいいよなー・・・などと、誕生日が過ぎて現実逃避気分にどっぷりつかっているのでした。
Par exemple !
G E N I A L !
窪田 英水氏の本とは、相性がいい。
映画とか、教えるときのポイントとかの視点が近いのかもしれない。
もう10年以上前に出た旅行用の会話集なんかでも、巷に出ている見掛け倒しのフランス語の参考書よりよっぽど使えます。
そもそも、この先生の著書とジェムの辞書を頼りに、ろくに喋れもしないまま私は無謀にも旅立ったのです。
この辞典は確かに初心者向けではないのですが、探究心の強い人でフランス映画が好きな人にはとっても向いているんじゃないかな。AからZまで、映画の中で使われている「これぞ、フランス語」という表現を、シナリオの抜粋を使って網羅しています。文法解説は少々アカデミックですが、フランス語の文法書を使っている人にはちょうど良い簡潔さです。
こういうときに使う、という例としてのシナリオはとっても役に立つし、類似の表現も載せていてくれて、巻末にはインデックス付き。まさにジェニアルです。
ぱらぱらと捲っていてつくづく感じました・・・フランス語ってホント、不思議な言葉です。
これだけ「論理的(ロジック)」をしつこく追求するのに、この辞書に載っている表現って全部ニュアンスでしかありません。むしろ、言葉面を裏切っている、パラドックスの体現みたいなものばかり。日本語にすると結構なイヤミになるんですが、そのギャップの中にユーモアがじんわり現れるのが感じられるようになると、フランス語がとても面白くなるんでしょう。
色々好きなフレーズはあるんですが、これは実際聞いたことがないので、ナマで出会ってみたい。
Bonjour qui? Bonjour mon chien ?
(「こんにちは、誰っていうの?こんにちは僕のわんちゃん?)
ママが「こんにちは」の後にきちんと相手の名前を言わない子供の無作法を注意する時に言うそうです。
確かに、親密さは名前を呼ぶところにモロに現れるので、近所の人と会った時にただ「Bonjour」だけだと人付き合いが悪いとか、心を許していないと思われるかもしれません。顔見知りは大概「Ah, bonjour, monsieur X ! Ca va?」と名前付きですものね・・・。知らないうちに誰かを不快にさせているかもしれません。Bonjourひとつで!!
「、」の問題
欲しい・・・。
生意気なことを書きます。 そいでもって、この考えはまた変わるかもしれないです。
翻訳という仕事は、本当に責任重大だよな、と思う。 趣味で試験的に翻訳をし始めた頃、「句読点の位置が!」と思った。
原本に忠実にウツベキデアル。と。
わりと、そう考えているプロの翻訳家って大勢いると思う。 そして、それだから訳がわけのわからないことになっている。 フランス語にとっての句読点と、日本語の句読点は、機能からして違うのだから同じ場所でうてる訳がない。両言語の構成の仕方が全く違うし、単純に息継ぎとしての役目を考えても、両言語の間に差が出るのは当たり前。
それを、律儀に点の場所までトレースしようとするから日本語で書かれているのにそうとは思えないグロテスクな文字の塊になる。こうなってしまっては、もう目が拒否するから先に進めない。それであきらめた本がある。
句読点の度に過呼吸になりそうになって、いい加減身の危険を感じてやめた。プルーストの「失われた時を求めて」以来だ、
「このまま読んでいたら病気になるかもしれない」
って思ったのは。 (プルーストの場合は、ワンフレーズが一頁半続いたりするので、息を吐ききってしまうと主語がなんだったのか忘れてしまうため、無呼吸症候群に陥る。脳に空気が足りなくなって、ちょうど「私」とかスワンが恍惚となるシーンで一緒にラリることができたりするので、そこでストレス発散ができる、かもしれない。どちらにしても、ヤバイ世界。)
あの長いフレーズは作者の喘息が作り出す、とかいう考証もあったりしましたね、そういえば。 そういう意味では、読んでて面白い訳ってなかなか見つけるのが大変かもしれない。 (だから文学部に入ってフランス文学を専攻するまで、仏文というものを毛嫌いしていた)
久々のヒットはモンテーニュの「エセー」。宮下志朗訳(白水社)は、たまにこの句読点問題で息苦しくなるけれど、全体的に読みやすくおもしろい。モンテーニュのおやじっぷりもよく醸し出されている。宮下バージョンは現在第3巻(全7巻の予定)が出たところで、日本語を読んでいてフランス語現代語訳版が読んでみたくなった。ネットだと原本を読むことができるけれど、16世紀のフランス語は微妙に読みにくい。
それにしても、今の自分を省みて、モンテーニュ(38歳で他界)は老成している・・・同じ30代というのは、色んな意味でショッキング。 「友情について」という話は、昔語学学校にいたときに抜粋を読まされて(それも無謀な話だ)、フランス語の難解さに一種のトラウマになってしまっていたのだけれど、抜粋部分がこんなところだったら、さっさと3巻すべて読んでいたのに。
子供から父親への気持ちというのは、むしろ尊敬の念ということだ。友情は、人間どうしのつきあいで培われるわけだけれども、父と子では、あまりにかけ離れていて、それは不可能だし、自然の義務にも反するようなことになりかねないのではないだろうか。
[...]だが、こうした生来のきずなをしりぞけるような哲学者もいた。アリスティッポスが好例で、
「あなたから出てきた子供なのだから、愛情を持つのが当然ではないか」
と迫られると、彼は唾をペッと吐いて、
「これだって、わたしから出たんだぞ。われわれから、シラミやウジだって湧くことがあるじゃないか」
といった。プルタコスが、ある人を兄弟と和解させようとしたところ、
「同じ穴から出てきたからといって、大事に思ってやるいわれはない」
と言い返したという。
「エセー」第1巻 第27章「友情について」 ミシェル・ド・モンテーニュ著 宮下志朗訳、白水
絶妙な脱線具合ほんと好き。
この「友情について」では、「愛情」と「友情」の違いについてや、今なら「ポリコレ棒」で滅多打ちされそうな「女性にはムリ」という「聖なる結びつきをはぐくむ」友情についての考察がとても面白い。
宮下版は、膨大な中から粋な抜粋をした「エセー抄」(白水社)があるから、いきなりこの量はちょっと・・・という方にお勧めです。
フランス語で夏休みにちょっとじっくり読んでみようか。8月は誕生日もあることだし、プレゼントにフォリオ全3巻頼んだりして。。。でも、もし私が友達とか彼氏とか親とかの立場で、プレゼントに「モンテーニュのエセー」って目を輝かせて言われたら、結構引きます。
いろいろやりにくい世の中。
ヒロシマ:フランスの場合。
Travaux
本日の土曜日のアトリエ、復活して参加してくださった方にみんな大喜び。うれしかったです。 さて実家が外壁の塗装や台所の工事で、いつになくガテンな人であふれています。 落語なんかだと、庭師さんが家の主人に「まま、ごくろうさん、こっちへおあがんなさい、日陰で一杯おやりなさいな」なんて労うシーンが出てくるもんですが、今はなんだか却って迷惑になるかもしれないし・・・とヘンテコなジレンマを抱えて、おかしなもんです。職人さんが何人来ているのかさえも把握できず。 ここのところ、気になっていた記事についてやっと書く時間をとれました↓ http://www.lemonde.fr/ameriques/article/2008/05/13/tres-suspectes-photos-d-hiroshima_1044315_3222.html (フランス語記事。コピペで飛んでください。いきなりPUBが出るので「FERMER」クリックで記事が出ます。) だいぶ「今更」な話ですが・・・。今日はちぃと社会派です。 先々週だったか、Le MondeでこのHiroshima : ce que le monde n'avait jamais vu(世界が未だ見たことのないヒロシマ)という特集を見かけて、その時激しく忙しかったのでそのままになっていたのですが、いざ読もうと思ったらなんと Très suspectes photos de Hiroshima(非常に疑わしきヒロシマの写真)にヴァージョン・アップ(ダウン)していて、あれあれ・・・? 要約すると、ル・モンド紙が1945年8月6日に広島に原爆が落とされた後の写真と称して出した10枚のうち、6枚が実は1923年の関東大震災の写真だったということがわかってあたふた、というもの。 なんでこんな凡ミスが起きたのかというと、そもそもこの写真の出所がスタンフォード大学の膨大なアーカイヴを持つフーヴァー研究所で、そこで初めにしっかりと裏づけが取れてなかったから。更に、5月の頭にはすでにそのうちの3枚がショーン・マロイというマーセッド大学(カリフォルニア)の研究者の著書に使われて出版されるということで、ル・モンドはすっかり信じ込んでしまったというもの。 フーヴァー研究所内で「キャップ・コレクション」と呼ばれているこの写真は、元駐日アメリカ軍兵士ロバート・キャップという人が「広島のある洞窟で見つけた」というものだとフーヴァー側は説明しているのだけれど、ル・モンドの突っ込んだ質問には、「個人情報に関することなので、キャップ氏についてはノーコメント」としか答えなかったそう。 原爆投下直後~3日目の写真というのは存在するという証言があるのだけれど、旧日本軍が8月17日以降検閲を厳しくしたため流出されておらず、当時の惨状を写したものは200枚ばかりが残っているだけで、しかも大量の遺体が写っているものはひとつも残っていないためこの写真はセンセーショナルなもの、と、関係者は大興奮してしまった。 けれど、その後広島平和記念資料館など2件の問い合わせがあり、マーセッド大学からもマロイ氏のHPからも件の写真が消えてしまい、詳しい説明もなく、ル・モンドはパニックに。 Inalco(フランス国立東洋言語文化学院)の日本言語・文明学科の責任者ミカエル・リュケン氏も、この記事には初め「とうとう欠けた輪を繋ぐ証拠が出てきた」とうっかり思ったらしいのだけれど、写真の検証をしてみたところ、 ① 人々がかぶっているかんかん帽が、20年代~40年代の特徴的なものだったこと ② 当時の広島にはない工場の煙突が数本写っていたこと ③ 写っている一部の木が無傷な状態で残っているということは原爆を受けた場合にありえないということ という訳で、現在のところ少なくとも6枚は1945年の広島ではないということがわかっています。 こんな初歩的な検証で「別物」と分かるっていうのは、どう考えても関係者の怠慢。 関わっているすべての機関で調査が甘かったという連鎖は、結果的に「権威主義」というのがちらちらと見える構図の上に成り立つ。「見たことのない」というフレーズはいつの時代も大衆を引き付けるし、タブー満載のテーマについてであれば尚更ヒートアップするのはわかるのですが・・・ この言い訳記事のル・モンドは完全に立場を責任転嫁していて、 「フーヴァー研究所は、なぜこれらの写真の信憑性を認めたのか?事前に日本の専門家に問い合わせをしたのか?ネガの時代検証を行ったのか?」と逆切れ。読者はそっくりそのせりふをル・モンドにぶつけたいです。 更に、「ル・モンドが日本の専門家の意見を求めなかったことに非があるとしたら、それはフーヴァー研究所がまさか資料の検証を怠るとは思わなかったからである」と締めくくるのには、唖然。被害者っぽく愚痴っていますが、同じ穴の狢では。 とかく、海外の文明・歴史についてはdramatique(ドラマチック)に捕らえがちですが、結果、"conséquence dramatique*" (サイアクな結果)になってしまったようです。 ................................................................. *本日の土曜日のアトリエで話題になった「dramatique」の言葉遊び。こんな感じでさっそく応用してみました。
sentir les mots
笹団子日和。
Je suis heureux dans ce monde car mon royaume est de ce monde. Nuage qui passe et instant qui pâlit. Mort de moi-même à moi-même. Le livre s'ouvre à une page aimée.
この世界に生まれて幸せだ、なぜならこの世界こそが僕の王国だから。雲が流れ、一瞬が褪せてゆく。僕自身の死、僕自身のための。本の気に入っていたページが風で開かれた。
冗談はよしこさん。
春はあけぼの・・・
e-corのアトリエでいずれは使うために新しく手に入れた教科書、Edito B2というやつ。
DALFのB2だから、相当ハイレベルです・・・。 ていうか、私は本当にDALFよく受かったよなと、この教科書を見て思ったり・・・。でも、全体的に見てかなり使える教科書だと思う。
CDが2枚付いているのですが、会話でよく使うフレーズ
Qu'est-ce que t'en penses? (どう思う?)
Bien entendu, (言うまでもなく)
なんていうちょっと高度な言い回しの聞き取りが入っているのですが、どうしてもひとつ聞き取れないフレーズがあって、ショックを受ける。言い回しを知らなかったから、何度聞いても「???」
Tout juste, Auguste !
『そのとおり』という意味なんだけれど、なんでアウグスティス?(フランス語でアウグスティスのことをAugusteと書いてオギュストと読みます) と、表現辞典を探したら、ただの語呂あわせだった・・・。
justeとAuguste (ジュストとオギュスト)
「正しいね、ただし君」みたいな感じ・・・?うわあ・・・なんか書いてて恥ずかしい・・・
なんだこれは、ひょっとしてオヤジもびっくりのダジャレすか?!
こんなん、手に負えないオヤジギャク連発のバベ氏(ナント時代にお世話になった)の口にさえ上らなかったぞ?!
表現辞典には更に、「同様にTu parles, Charles」。
このやるせなさ・・・なんというか、せつなくなってきます。
訳せと言われても、とっさに訳が出てこないことにそこはかとなく安堵感を抱きつつ(Tu parles ! は『よく言うよ!』とか『またまたぁ~』とか、『まっさか~!』という意味)。
この間、図書館で「このダジャレで生き延びろ!」という本を見つけたことを思い出した。
あの著者ならうまい訳を難無く思いついてくれるかもしれない。
でも、「このダジャレで即死!」になる可能性濃厚だな。
Edito B2, 実はコテコテのネタ満載かもしれない・・・そんな予感に戦慄が走りました。
あ
思いついちゃった。
「冗談だろ、ジョーダン君!」
ヤバイって・・・。
「わたしの」外国語学習法考
かた雪かんこ
しみ雪しんこ
鹿の子ぁ嫁ぃほしいほしい
宮沢賢治「雪わたり」
衝撃的事実を明かしますと・・・ フランスのテレビの気象情報は、どのチャンネルもつっこみどころ満載ですが、 個人的に一番気になっていたのはTF1の月~木担当のおばさんの露出過激な服装と、マージ・シンプソン(仏語吹き替え版)激似の喋り方。
おっと、衝撃的なのはそんなことではなくて(ま、ある意味衝撃的ではあるんですが)。 日本人が「雪が降っている」を習うとだいたい Il neige(イル・ネージュ) となるのですが、実際、天気予報でこう言われることは結構稀なのです。
雪が降るでしょうという時は、 flocon(フロコン、un、ふわふわした塊のこと。綿片、オートミールなど。) を複数形で使って、
Quelques flocons (sont) possibles en Ils-de-France イル・ド・フランスで雪がちらつく可能性があります
になるし、雪が積もる場合は une bonne couche de neige と、couhe(クシュ、une 層)を使います。
あ、雪!という時に「イル・ネージュ」と思わず口から出るのは外国人だけという・・・ ま、それは乱暴な話で、日常会話で使われることもありますが、ちょっと衝撃的じゃないですか?
さて、La neige tombe sur la ville de Niigata・・・2008年初雪です。 昨日は風邪気味の上に、明日引っこ抜く親知らずが最後の主張を力なく行い、なんとなくおたふくな顔でごろごろするはめになってしまいました・・・。 そこで、一時期忙しさにまぎれて途中になっていた、ロンブ・カトーの「わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)」を読むことに。以下、長くなりますのでお時間があるときにでも。 ねじれてるひと。
以前この本を紹介したときに、「一週間に平均して10~12時間以上学習しないと身につかない」という件を抜粋したところ、思わぬ反響があったのですが・・・ 記事を読む→フラ語上達の技。 終盤のほうに、またもやガーン!となるやもしれぬ公式を発見しました。 『語学的才能について』という章に記されているのですが、
消費された時間+意欲(関心度) =結果 羞恥心
上リンクの前回の記事で、確か、「一番いい単語暗記の方法は人前で間違えること」と書いたのですが、そのテーゼ(?)を悪魔的に証明しているのがこの式でございます。
分母が一種のブレーキの作用として在り、どんなに時間を消費しても、どんなに意欲があっても、効率的に結果が出にくくなってしまう。羞恥心のために、誤りを犯すことを恐れ喋らなくなってしまう(心理学で言う阻止現象)、論理的基盤を失うのを恐れるあまり、母国語の規範にしがみつき、なかなか外国語の規範に移ろうとしない(又は、以前に身に着けた外国語の規範にしがみつく)・・・
ただし、もしも分母が0だった場合に、この呪われた(!)数式の足かせ部分がチャラになるかというと必ずしもそうとは言えないのです。
教育学の見地からすると、最も価値あるのは誤り、それもわれわれ自身によってなされた誤りです。自分の間違いに気づくことが出来たとしたら、その誤りを、笑われたり、驚かれたり、常識を疑われたり、時には同情されたり、自尊心を傷つけられたりしながら指摘されたとしたら、このときに生じるわたしの感情、目には見えないかもしれないもののわたし自身のそれに対する反応が、[記憶の] 定着化のための補助用具の役割を果たすのです。 p.189, 16 われわれが外国語で話すときのメカニズムはどうなっているのか? わたしの外国語学習法、ロンブ・カトー著 米原万里訳 ちくま文庫)
つまり、羞恥心が「定着」という作業の潤滑油だとしたら、まったく羞恥心がなければ上の作用は起こりえないのです。諸刃の剣というべきメカニズム・・・。
ところで、彼女が述べている先の式について、これはなにも私達を脅かそうというのではなくて、語学を習得するには特別な才能が必要だ、とする巷の偏見を覆すもの。
よく、「もう●年も勉強しているのに、ちっとも上達しない」という声を聞きます。(これは何の習い事でも当てはまると思います)
学習環境や、ついている先生にもよるというのは実は微々たる影響でしかありません。その言葉を母国語とする先生に習わなければ上達は見込めないとか、留学しなければ使いこなせるようにはならない、だから「母国から出ずに語学習得というのは寝言のようなものだ」、「行ってしまえば何とかなる」という考え方はたちの悪い宗教のようなもので、恥ずかしながらわたしも長いこと盲目的に唱えていた御題目です。
しかし、0のまま果敢にもやって来て、心身を壊し、目をつぶりたくなるような思い出しか蓄積しないまま自国に戻る人、一体何を学んだのか自分自身さえもわからない、そんないたずらな時間を過ごしてたゆたうように帰国する人・・・そんな人たちをたくさん見てきました(日本人だけに限りません。しかし、そういった日本人の割合は残念ながら多いと言わざるを得ないのです)。
その一方で、わたしの友人たちにも多くいますが、それほど長期の語学研修を受けずに効率よく外国語を複数ものにしていく、という人々が存在します。
学歴や職種は関係ないのです。(これは、私の日本での学歴がいい証明になります) 友人の美容師(日本人)は、驚くべき柔軟さと表現力、語彙力、滑らかな話力でフランス人たちと意思疎通を図ります。
ある時、語学というのは天から降ってくるものではなく、自分がどんどん下に根をはって伸ばしていくものだと気づいたとき、自分というアイデンティティや生活から切り離した別次元で学ぼうとしていては決して「定着」しないということに気がつきました。
それが、「日本で使えるフランス語を教えたい」というコンセプトとして、今のe-corを打ち立てるきっかけになったと言えます。
長々と論じてしまいましたが、最後に、カトー氏の言葉を上達に悩む方々に。
(...)自分の内に真の関心があるものかどうか確かめてみることです。真の関心のおかげで、御承知のように、是が非でも望みをかなえたいという強い意思が生まれるのです。 p.226
空耳の行方 本編
Leo Lionniが好き。
「スイミー」も今年の年賀状の素材だった「アレクサンダーとぜんまいねずみ」も、
小学校の教科書で出会った。
ちぎり絵のキッチュさがたまらない。
たまらないので、今年の干支の置物にしてみました。
お待たせしました、NaturalibusのNous nous serons plus deux 正解編です。(曲はこちら→(Click!)) 恥を忍んで、空耳の部分の正しい詩を赤ペン添削しております。 笑ってください。 いやー、でもディクテやると様々なフラ語機能が活性化されますね。 耳だけでなく、文の読解力も付きます。 生のフランス語はものすごく早い上に、ほとんどの人はあまりはっきりと一つ一つの言葉を発音しません。それはまあ、どの言語でも同じだと思うのですが、 フランス語の聞き取りの難しさの特徴のひとつは、単語同士を一定の法則にしたがってつなげて発音するenchaînement(アンシェヌモン),liaison(リエゾン)があるから。 アンシェヌモンは、前の単語の語尾子音と次の単語の語頭母音がつながり発音される連音のことで、上の歌詩には見つからないのですが有名な例としては une_étoile(ユネトワル)。 リエゾンは、本来は発音しない語尾子音が次の母音とつながる連音のこと。歌詞中ではvingt_ans がリエゾン。数字の20=vignt(ヴァン)は、単体では最後の t を発音しませんが、後ろに、母音から始まるans(年の複数形)が来ることで「ヴァンタン」と発音されます。 フランス語の詩というのは、散文詩であっても韻が踏まれることが多く、歌詞も例外ではありません。しかも、ただ韻を踏んでりゃいいというものでもなく、形式にあわせて様々なタイプがあり、更に女性韻・男性韻と、ここでもgenre(性)が重要視されます。 フラ語詩を書いたことがある方はお分かりかもしれませんが、 韻を踏みながらシラブルの数を合わせるのは本当に難しいです。 だから、詩人というタイトルを得ることはものすごく名誉あることなんでしょうね。 フランスの古典戯曲(モリエール、コルネイユ、ラシーヌとか)も「詩」の部類に属されているので、全編通して韻を踏んで、さらにアレクサンドランという形式に沿って書かれているのです。芝居一本ずっと韻を踏み続けるなんて、あり得ない・・・ 以前、S氏が「ミスチルの歌詞は韻を踏んでいるんだ!!」と熱く語って教えてくれましたが、日本のアーティストではかなり珍しいんじゃないでしょうか。 Naturalibusの歌詞は、韻の音はシンプルながらパターンが結構凝っていて、アカデミック。 アルバムの他の曲も多様で、この先が楽しみな力量をひしひし感じます。 ただ、売れ出した頃ってイマイチ垢抜けなくて、ジャケットの写真はなんだかその辺で出くわしてしまいそうな、超庶民的な感じの従姉弟二人なのでした。
ナチュラリブス・ブームはつづくよどこまでも
A temps perdu...(暇な時にね・・・)
と言ったら、「暇なんてあんのか?」という目で見られてしまった。
ハイ・・・ありません。
暇猫のようでいて、色々と面倒を見てくれる虎徹。
と、歌っているらしい・・・、Naturalibusの Nous Ne Serons Plus Deux(もうすぐ二人きりじゃなくなる)。 昨日の記事→(Click!) からYouTubeにアクセスして聴くことができます。 歌詞が知りたくて色々探したけれど、まだ売れ出したところのアルバムなので見つからない。仕方なく自力で歌詞をディクテ。 昨日は「さて、1日1時間半、どうしますか?」などと偉そうなことを言ってしまったので、自ら一時間半苦しみました。皆さんだけにやらせておくわけにはいかんのです。 いやー、久しぶりにやったらなんと空耳の多いこと!歌の聞き取りは難しい。こんだけ綺麗に歌ってくれているにも関わらず、少しあいまいなところが数箇所あるのであまり当てにしないで下さいませ。(CDが届いたら訂正します。たぶん。) 聞き取りやすいし、現代の若いフランス人の感覚がつかめそうなら授業で使おうとおもったのですが、ちょっと難しい・・・遅い妊娠がわかったカップルの困惑を歌っているんだと思います。 準備OKなんてありえない 特にこういうことに関しては いまさらできちゃったなんて 準備OKなんてありえない 特にこういうことに関しては 後はもう覚悟するってことで という内容はかなりシビアながらサビの部分のデュオがとっても美しい。 そして、Guillaume Farleyのヴォイスに結構メロメロきてます。 フラ語の歌を課題に持ってくる時、大概「オーシャンゼリゼェ~」とか 「枯葉」とか、結構うんざりするので(いや、この2曲だって名曲だと思いますよ。思いますけど、うんざりです。それにAux Champs Elyseeは結構難しいの、歌うのが。だいたいから、フランス人はそんなにこの歌を歌わない。カラオケで歌うのは必ず外人。) もっと最近かかっているポップスを使ってもいいんじゃないかなと思っています。 e-cor土曜クラス授業に歌が登場するのは、動詞の回になります。 さて、何の曲になるやら、どうぞお楽しみに・・・。
フランス語上達の技。
Sincèrement votre, (こころから、あなたの)
すごいかっこいいバンドを見つけた。 Naturalibus(ナチュラリブス)
あー、ライブを見るためだけにでもバスチーユまで行きたい・・・ たまたまFrance Inter(ネットラジオ)をつけたら、この人達のインタヴューだったのですが、すっかりはまりました。こういう時、iTMSのフランス版プリカを買っておけばよかったと後悔します。今度誰かに買って送ってもらおう。 しょうがないのでまたアマゾネスFR。 (これだけ利用してるんだからたまにはギフトぐらいつけてくれてもいいのに。ぶちぶち。)
「ナチュラリブス」って、日本人の語感から言うと、なんか「素でブス」みたいな不埒なイメージがつい沸いてしまうのですが、例のごとくウンチクをたれますと、ラテン語で「裸の」という意味になります。
(正式にはin naturalibusで、"Dans l'état de nudité,裸の状態で")フラ語表現でもそのままin naturalibus(イン ナチュラリブス)と使うらしいですが、
Il m'a surprit in naturalibus. (生まれたままの姿の彼に驚いた)
という例に驚いた、ウィキショネール先生。危ない全裸男登場をアカデミックに表現するなんともせつない例です。
ま、それは置いておいて。
ここにも前からよく「類友」という話題を書いているが、わたしは自分の状態(肉体的、精神的及び魂的)がすべて自分にまつわる現象を起こしているという考えを持っている。 トータルでそういう風に考えることができればいいのだけれど、今はまだ修行中の身で、理不尽なことが起きるとつい憤慨してしまうのですが。 だから、新しい出会いなんかも、実はどっかからお互いに見えない電波を飛ばし合って、引き寄せあうんだろうなと感じる。日々、考えていることが誰かの口から出てきたり、読んでいる本の一行から現れたりすると、あ!シンクロ!とうれしくなる。
図書館で借りた「わたしの外国語学習法 」(ロンブ・カトー著、米原万里訳、ちくま学芸文庫)を読んでいたら、(またラテン語・・・ごめんなさい)
docendo discimus (ドケンド ディスキムス) 「教えながら自ら学ぶ」
という言葉にぶつかって「わあ!」と歓声をあげてしまった。
どうしたら単語を覚えられるのか?という疑問。
これは誰もが外国語を学ぶときに苦悩の中で呟くもの。わたしも、色々な先生に聞いたことがある。 書いて覚えるとか、繰り返し口にするとか、テープに取るとか、色々なアドヴァイスを頂いて、試してみるのだけれどなかなかくっきりした成果が現れているような実感が持てない。 そんな中、わたしが色々試した結果、使えると判断した非常にオーソドックスな方法を記しておきます。残念ながら魔法のような方法はありませんので、あしからず。 他にもいい方法が見つかったら更新します。
フランス語を使うべし。
とりあえず、2番めにいい方法だと思っているのは「使うこと」。 単語を覚えなければならないとき、こじ付けでもいいから無理やり自分の会話の中にその単語を使う。
友達とのメールに書く。
普段フラ語を使う環境にいないのなら、例えばこうしてblogに書く。(←これも、最初のうちは赤面な大間違いを世界中に晒すことになるので本当に恥ずかしい。わたしなんか今でもしょっちゅうやらかしますが。)
ひとりごとを言う。普段、フランス語で会話をする機会がないとしても、普段自分が日本語で行っている思考を隅々までフランス語で口に出す。また、自分の気持ちや考えをフランス語で説明してみる(例えば、自分はフランス語のどんなところが難しいと思っているのか、とか、今付き合っている彼氏・彼女や妻・夫・友達などと、どんな風にして出会ったのかとか、今週の予定とか、好きなモノについてとか。)
使うには、その単語を知っていなくてはならないから、使うことで脳は「あ、自分はこの言葉を知っているんだ」と納得することができるというからくり。
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人前で間違えるべし。
一番手っ取り早い方法は「人前で間違う」というなんともマゾヒスティックな方法でございます。
恥ずかしいと感じると脳の危機管理機能がフルで働き、一発で頭に刷り込まれ、二度と間違えない。 ただ、この技は心臓に負担がかかる(!)のでご注意を。また、人前で大間違いすることをなんとも感じない毛がぼうぼう生えている心臓の持ち主の場合、残念ながらこの手法は効かない。
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教えるべし。
教わってるというのになんと狂ったアドバイスだと思われるかもしれませんが・・・
なんの分野でも習得のリズムは個々違います。だから、スタートが同じでも、しばらくすれば個々の天性の勘や今までの文化的な蓄積、生きた年数なんかが関わって差がでてきます。
先にできている流れに途中から加わるのは気後れがしてしまいがちです。 「自分ひとりだけできないのでは、ほかの人に迷惑がかかってしまう・・・。」
リズムの早い人はイライラします。 「なんでそんなこともわかんないかな~!!やる気あんの?」
ゆっくりさんは逆切れします。 「わかってるんなら、もっと高度なところに習いに行けばいいじゃん!あんたの独壇場のためにお金払ってんじゃないんだから」
(これ、わたしが実際語学学校にいた時に感じた空気の一例です)
e-corのフィロソフィーにも書いているのですが、授業中に一番耳に残るのは、実は先生の説明ではなく、クラスメイトの発言だったりします。 そして、「使う」ことでしっかり脳みそに焼き付けるには、人に「教える」ことが手っ取り早い方法なのです。
少しずつ複雑になってきたときに、「わかる人」が、「わからない」人に仕組みを説明するということで、わかる人もわからない人も一石二鳥に宝を分かち合うことができてしまいます。 教えてみるとわかるのですが、あいまいな知識で人に教えるのはとても難しい! だから、実際教えてみて、できなかったとしたら、「わたしはこれを知っている」と勘違いしていたことに気づかせてもらえる。「できない」人は、足手まといどころか、天使のような人になってしまうのです。
人は自分ひとりでは絶対に成長できません。
自分のために、もちろんですが、人のために、仲間と知識を分かち合うために覚えようと思えば、少し苦労も軽減するような気がします。。。情けは人のためならず。
e-corでは、自然に「できる」人が「できない」人に教えることで授業が進んでいくという状況を実現していきたいなと常に思っています。
「わたしの外国語学習法」、作者は16カ国語を身につけた経験を語っているのですが、語学は少なくとも週に10~12時間学んでいなければ、使えるようにはならないそうです。わたしもそう思います。最低でも一日1時間半。
さっきお昼のFrance2のニュースでサルコジがカーラ・ブルーニと付き合ってると報道されていました。元妻といい、なんで自分より遥かにでっかい人ばっかり選ぶんでしょうね。。。
情熱の白い銀杏
おしごと中・・・。
2008年4月からのカルチャーセンターでの講義プランを製作中。
しかし、なかなかアイデアが浮ばず。
「e-cor出張授業」は巷にあるフランス語講座とはひと味ちがうぜ・・・
と言いたいがために、というか、「ひと味違うものをぜひお願いします」と言われてそれ以来、「ひと味」を求めて彷徨う。ボウフラのようにとぎれとぎれのアイデアがでるものの、いまいちパンチが足りない。
催促の電話のベルにびくびくしつつ、〆切におびえること一週間。
こういう時は、必殺技を使うしかない。
Ô Muse, donne-moi ta haleine divine, Ô l'Inspiration !!
(おお、ミューズよ、神の息吹を我に与えたまえ、おお、インスピレーションよ!)
神頼みすること数時間、現在午前2時。
乾かしている銀杏を見ていてびびっと来ました。頼んでみるもんだな。
タイトル(仮)Passion France(パッション・フランス)に決定。
銀杏とのつながりは意味不明ですが、
とりあえず来年のテーマはパッションで行こう!
はじまりました。e-cor フランス語コミュニケーション教室
本日、開講。お祝いに、生徒さん(と、そのお母様)からお花を頂きました。ピンクベースのブーケ、ヒペリカムの赤い実がノエルっぽくてかわいい・・・
どたばたしまして、最後にはお水までこぼして、生徒さんにお世話をかけっぱなしでございました・・・。皆さんの授業風景を写真に撮ろうと思ってカメラを持参していたのですが、頭に血が上っていてすっかり忘れていました。次回はもうちょっと落ち着いていけるように気をつけます。
皆さんちょっと緊張ぎみでしたが、初めて本格的にフランス語に触れてみて、いかがでしたでしょうか?「敷居が高い」と思われがちなフランス語ですが、少しでも身近に感じて貰えたら嬉しいです。
最初のうちは、確かに覚えることだらけで混乱しがちです。活用やら名詞の性やらにめまいを起して挫折してしまうパターンがほとんどなんでしょう。けれど、日本語だけを使っていては一生接することのない、その多様さを逆に楽しんで、興味を持って辞書を引いたり、発音を試してみたり、という冒険をしているうちにいつの間にか脳に染み込んでくるのだと思います。
あせらず、一歩ずつ一緒に進んでいけるといいですね。
朝、パンを焼けるように仕込んでおいたのですが、レーズン酵母が間に合わなくてイーストを使ったため、醗酵時間の予測ができなくて往生しました。
とりあえず、みんなで食べられてよかった!
つまりぎみ
20日の新潟日報のgood morning ! ! (駅南方面)に、NIC新潟で始まるe-corの生徒募集が載ります。
それから、23日に同じく日報のフリーペーパー「assh」にも折込チラシが入る予定です。
こういうチラシって、ナントで活動してた時に作ったことはあったけれど、
本格的に折り込んでもらうのは初めて。ドキドキ。
それから、来年四月からになりますが、e-corがカルチャーセンターに登場するかもしれません。
A suivre...(乞うご期待)ってことで、楽しみにしていて下さい。
すでにそちらから来られてこのページをご覧になっている方もいらっしゃるかもしれませんが、「おけいこ広場」にもe-corの紹介をして頂いております。 色々な方の力をお借りして発信できそうです。 ありがとうございます! さて、フランスと言えばスト。ストと言えばフランス。 特に11月は多い月なんですが・・・ SNCFがスト、郵便局もスト、そしてまたもや大学がブロキュス(ブロック)をしています。 Le Mondeでは、前回の大規模なブロキュスですっかり有名人になったUNEF (Union Nationale des Etudiants de France フランス全学連) の代表ブルーノ君と、ヴァレリー・ペクレス 高等教育研究大臣が会見したという記事が載っていましたが、この大臣が言うには、 "Il n'y aura pas, avec la loi, de désengagement de l'Etat (...) pas de sélection à l'entrée à l'université, pas de hausse des frais d'inscription" 「(現在制定を検討中の)新しい法律によって、国が大学経営から手を引くということはないし、[...] 入学試験を新たに行う予定もないし、また入学費用が高騰するようなこともない」 ・・・じゃ、別に改定することないじゃん。 と、思わずつっこんでしまいました。 私も2年前にCPEに反対するデモのお陰でエライ目に合いましたが、 相変わらず学生側も政府側も、どうも空回っているような・・・。 これじゃ学生たちも何のためにストをやっているのかわからなくなります。 母校ナント大学文学部も現在ブロック中。 新学期が始まって(9月スタートです)、ちょうど最初の提出物(小論文)の期限の頃ですから、一部の学生は「助かった!これでいい論文が書ける・・・」と、スト万歳状態なのかもしれません(実話?・・・かも)。 なるべく早く解決するといいですね・・・特に交換留学で来ている人たちのためにも。 「つまる」ってよくない。 便秘が体によくないように、思考停止してしまうとやっぱり不健康だなとしみじみ思います。
La rentrée avec livres
うみをこえ、たどりつきし わがことのはたちよ
2ヶ月と一週間を経て、船便発送の本が一気に届いた。 ずた袋 ×3 箱 ×3 ナントのTour de Bretagne前の大きなLa Posteで激闘の末に特別価格を設定してもらって、 一袋25キロという代物を3つ送った。 船便は 「ぼろぼろになって届く」 「というか、届くことは稀」 「JaponをJamaique(ジャマイカ)と間違える」 「中身を抜かれる」 などなどがささやかれ、大事なものは送らないほうがいいと言われている。 さらに、3時間ほどの押し問答の末に手筈を整えてくれた兄ちゃんが持ってきた荷札はただの段ボール紙で、ゴミ袋に入った本たちがまともに日本の我が家にたどり着く希望はもはや限りなくゼロに等しい様相だった。 んだけど、あっさり2ヶ月ちょっとで届いちゃった。 一箱5キロまでの書籍も同じく船便扱いだけど、箱の状態なんて飛行機で送ったColissimoよりよっぽど良かった。 なにはともあれ、ありがとう、受付のおばちゃん、担当してくれた兄さん、届いたよ!! 最初は「だめ」の一点張りだった兄さんは、最後にはわたしが日本でフランス語を教えようと思っていてこんなに本が必要なのだと答えたら、とたんにサンパ(sympa : 好感)度が10ぐらいあがって、改めてこの国は自分たちの言語にとても誇りをもっているんだなと感じた。 愛しのプレイヤード版カミュ作品集にすりすりしつつ、袋から出した本たちを整理していたら、 野次馬猫Marrant(マロン、おっかしいやつ、へんなやつという意味)は案の定邪魔しに現れ、爆睡。 9月が新学期のフランスでは、毎年この時期に大学の登録やカルト・セジュールの申請をして(相変わらず待たされたり係員の態度に腹を立てたりしながら)、今年度の要綱とにらめっこしつつ取りたい授業を決め、テーブルには本の山ができる。 それが、今年がない。 ほっとするようで、少し物足りないようで・・・。 とりあえず、今日はもう寝るよ、Marrant、きみの様に本に囲まれてぐっすりと。
フランス語の手紙 その2
その1で例に挙げたアルベール・カミュとルネ・シャールの書簡集。 ジャンルは違えど、二人の「auteurs(オター、著者)」が綴るフランス語は、まさに生きたお手本になる。フランス語学習者にとってはあらゆる面で「使える」のではないかと思い、今回自分のFLE(フランス語教授法)の「l'écrit」(筆記)の教材として取り上げた。
フランス語の手紙でまず考えなければならないのは、「距離感」。 相手との親しさの度合いにより、文体も変わる。使える「モード(mode、法)」も変わる。 距離感を出すとニュートラルで複雑な文体になることが多い。 個人的な感情や事情をできるだけ押さえ、ベールに包んだ表現をするから、恐ろしくまどろっこしくなる。 必要以上に踏みこまない礼儀。 難しいのはそのニュートラルな文体の中でいかに相手に自分の想いを伝えるかで、お役所の送ってくるような手紙で初めて個人とコンタクトを取るのはかなり味気ない上に、貰ったほうもどうしていいか困ってしまう。
シャールは一番最初の手紙で、馴れ馴れしくなく、うやうやし過ぎずにカミュへの熱烈なる賛同を短い文章で記し、更に「会ってお話したい」という希望もきちんと伝えている。 それに対するカミュの返事は、更に気遣いの含まれた内容でさすが、と思わせる。 シャールとまだ完全に親交を結んでいない状態なので、ニュートラルな文体は変わらないのだけれど、ちらり、ちらりとシャールに対する好感を言葉尻に含めて、快い返事が返ってくるだろうか、とドキドキしているだろうシャールを安心させるように、自分は不快でないこと、シャールの申し出をうれしく思うことを伝える。 この二人は、その後ぐっと親しくなるのだけれど、最後まで「vouvoiement(ヴヴォワモン、Vousで会話すること)」を続けた。 確かに、昔はノーブルな家庭では親子でもvousを使っていたし、「同士」が流行っていた当時としては互いに尊敬をこめてvousで話すのが普通だったのかもしれない。 それに、二人の男はただの人じゃなくて、時代を代表する詩人と未来のノーベル賞作家だったわけだし。
vousを使いながらも、親しさを表現する方法はこの本の中にちりばめられている。相手の健康を気遣う言葉、相手の新作に対する熱い賞賛、どれもさりげなさの中に温かく表現されている。これは、書き手の巧さもあるけれど、受け取ったほうの読解力の高さも必要になる。 たとえば、カミュがシャールの新作を評価する時に、心を打たれただのすばらしいだのという月並みな表現はほとんど使われない。では、どうするのかというと、 シャールの作品の抜粋を手紙の中で使う。 これにより、一言も賞賛の言葉を加えなくても、カミュがシャールの詩を読み、抜粋部分が特に気に入ったということを伝えている。 フランス人は一般的にほめ上手でお礼上手だ。それは、手紙の表現の豊富さからもよくわかるし、どんなにひどい出来のものでも良いところを見つめようとする。(逆に、けなし上手でもある。本当にイジワルにインテリジェンスを持って批判するのが巧い。) 彼らにとって、言葉の選択、表現力、読解力というのはその人自身のセンスと品格を問われる重要なアイテムなのだろう。
普段、日本語でメールを書いている時そんなつもりはなくても、自分のことばかりを相手に押し付けて、後で慌ててとってつけたように相手の様子を聞いたりするような内容で、自分でいやになってしまうことが多い。 カミュとシャールのように、相手の活動に心から興味を持ち、それに触発されてまた自分の新しい作品につながっていくという交換は本当に理想的だなぁと思う。そういう相手を一生のの中、一人でも見つけられたら、そしてそんな風に関係を繋げられる相手にふさわしい自分でいられたとしたら、それは幸せと言えるだろう。築かれた二人の悲しく美しい友情は死が分かつこともなく、人から人へと語り継がれて行くのだから。
* * *
カミュの事故の2日前、シャールはカミュの家に遊びに来ていた。帰り際、彼らの共作La Postérité du soleilについて話していた時、カミュはシャールにこう言ったらしい。
"René, quoi qu'il arrive, faites que notre livre existe !" 「ルネ、何があろうとも、僕らの本が残るようにしてくれよ!」
1960年1月17日、シャールはCiska Grilletに手紙を書いている。
"Tu penses que je t'oublie, n'est-ce pas ? Combien non ! Mais écrire à ceux que l'on chérit se fait,(me fait) mal. Ils vous habitent, et alors on leur parle. Comment est-ce que je vis par ailleurs ? Je n'en sais rien. Je suis venu ici pour - après avoir passé une journée avec lui ! - ensevelir Camus. Etrange monde. Présence absence, Royaume de l'éclaire et du chagrin. Prenez bien garde à vous, Ded et toi. Je vous en prie."
「僕がきみの事を忘れたと思っているだろう?違うに決まってるだろ! けれど、愛しんだ人々について書くということは、(僕)自身を苦しめることなんだな。彼らは君らの中に住んでいるんだよ、だから僕らは彼らに話しかけるんだ。そうでなけりゃほかにどうやって僕が生きていられるんだい?僕にはわかんないよ。ここに、 ― 彼と一日過ごした後で ― 僕はカミュを埋葬しに来たんだ。奇妙な世界だよ。存在、不在、光と悲しみの王国だ。どうか身体を大切に、デッドときみ、二人とも。お願いだから。」(抜粋はすべてCorrespondances Camus - Char 1946-1959, éd.Gallimard, 2007より、抜粋部分の訳はまりによるものです)
夜明けの前が一番暗くなるのさ。
ポジティブ・シンキング。 その一。よりによって、小論文の試験日の朝、ひとつしか持っていない腕時計の電池が切れる・・・
二つ持っててもそうそう使う機会がなかったもう一個は去年帰国した時においてきちゃったんだよな・・・元彼が付き合ってたときに意味もなくくれたGucciは数字表記がないので一瞬今何時かよくわからなかったりするし。へんなスーパーの袋に入って渡されたので実はバッタもんなのでは、と今でも疑っている←オイ! (※彼の名誉のために:その日はみんなでバーベキューだったので汚れないようにという配慮だったらしい。一応箱には入っていてちゃんとギャランティにナンバリングもあったのですが、スーパーのビニ袋の圧倒的存在感に敗北) 大学の試験では一応携帯持ち込みはだめってことになっているのですが、4時間の時間配分は結構重要な、stratégieなので時計はあんでぃすぽんさーぶる。 大学の試験って、監視がめちゃめちゃゆるい。まー、小論文の試験なんかでカンニングは無意味な行動になるし、そもそも分野が暗記じゃなくて分析と文章クリエーション力、論証力が問われるから試験監督の先生たちは試験さえ始まってしまえば後は暇人。 さすがにライナスアンドスヌーピーの目覚まし時計を持っていくわけにもいかず。「grasse matinée(おねぼう)」とか書いてあるしね・・・(そういう問題なのか?) で、壊れた愛用montreはギャラリー・ラファイエットのいつも行く時計直しコーナーで電池交換をしてもらって今日の中世の小論文に間に合いました。よかった。壊れてなくて。 私にしては大金はたいて買ったので。でもマイナーなキャサリン・ハムネット。 その2。Dent de sagesse pas très sage ダン・ド・サジェスとは親知らずのこと。サジェスは「賢さ」を意味しますが、形容詞のsageサージュからの派生です。ちなみに、形容詞だと「おとなしい」という意味でも使われますので、あの子っておとなしくていい子だね、なんていうときにもcet enfant est sageと使われたりします。 で、私の親知らず下二本は、暴れん坊。 しかも、おととい急に左側が一時期止まっていたのびのび運動を再開することに決めたらしく、Aïeeee!!!! さらに、それに呼応したのか左の上の銀歯グループが超☆敏☆感!!で、とにかく熱が加わるだけで飛び上がるほど、その後ずきずき・・・ こりゃ、まともなご飯が食べれないやと、スープを買ってきたものの、左側にかかると即死状態なので、顔をななめにしつつティースプーンでスープをちびちび飲むという、人様が見たらそれは大笑いな状態・・・ 今朝は左のほっぺたがぷっくりと腫れてます。えーん。それでもがんばった。試験。4時間メレアガンとギュィニエーヴルのあほくさい会話を分析して5ページ書いたさ! そんなわけで、がけっぷちでinattendu(思いもよらぬ)アクシデントに見舞われつつも、なんとか生きて試験を受けに行っています。あと3日。そして、その後は必死にレポートを2日で製作し提出。 という妙なテンションなのでした。空の写真しかありません。空はいいなー。青くって。(やばい、そろそろやかん状態かも)。FIN
Aucassin et Nicolette。試験勉強
予想通り、一週間「あ」といっている間もなく過ぎる。試験は今週の水曜日からスタートしました。
Naie voir, tant n'atenderoie je mie; ains m'esquelderoie de si lonc que je verroie une misiere u une bisse pierre, s'i hurteroie si durement me teste que j'en feroie les ex mix a morir de si faite mort que je seusce que vos eusciés jut en lit a home, s'el mien non. Non, non, je n'attendrais pas tant, mais d'aussi loin que je verrais un mur ou une pierre de granit, je m'élancerais et m'y heurterais la tête avec une telle violence que je me ferais sauter les yeux jaillir toute la cervelle. Aucassin et Nicolette, XIV, GF-Flammarion, 1984, Edition Jean Dufournet. オーカッサン エ 二コレット。 12世紀の終わりから13世紀の始めの作品と思われる。「chantefable(シャントファーブル)」と呼ばれるスタイルはchanté(シャンテ。謡)とParlé : récit et dialogue(語り。物語と会話、つまりはファーブル)が交互に組み合わされていて、chantéの部分だけ見るとギリシャ悲劇のコロス(choeur)のような印象がある。次の語りの部分の要約をvers(韻文)で綴る。語りの部分はprose(散文)。 大人達に引き裂かれる若い二人オーカッサンとニコレットの恋・・・ロミオとジュリエット、ピラムとティスベのような悲劇を髣髴させる導入。 に、だまされてはいけません。フランスですから。 (ピラムとティスベもフランスですが) この頃に書かれた作品、FabliauxとかLe roman de Renartとか、こぞってロマン・クルトワ(騎士物語)をパロったものばかりで、このオーカッサンとニコレットもその仲間に入ります。 ニコレット(女)はカルタゴの王女なのですが、小さいときに異人さんにつーれられーてー、ブガー・ド・ヴァロンス伯爵に買われ(!)娘として育てられます。伯爵と長年喧嘩(戦争)をしているのがガラン・ド・ボーケー伯爵、オーカッサンはその息子なのです。 どうでもいいけど、中世の人名って半端じゃなく変な名前が多すぎる・・・ で、ボーケー伯爵は息子をだまして戦争にださせてニコレットを忘れさせようとしますが、オーカッサンは反抗。結局塔に隔離されてしまいます。ニコレットはニコレットで別の塔に養父に閉じ込められているのですが、抜け出し旅に出ます。その直前、塔の中と外でオーカッサンとの別れでのやり取りで、オーカッサンの涙の訴えが上の抜粋。 一応、ここはメロドラマな場面なのでしょうが、現代的感覚で読むと突っ込みどころ満載です。(最初のパラグラフが古フランス語、次が現代語訳) 国外へ逃亡するというニコレットに、オーカッサンは「君に最初にあった男は君を連れ去りベッドへ連れ込むだろう、そうなったら君はそいつの愛人になって僕の愛なんか忘れてしまうんだ・・・」とぶちぶち。続いて、「そんな君と再会する位なら今すぐ死んでしまったほうがどれだけましか」と、激しく愛を訴えるシーンなんですが。 嫌だ!こうなったらすぐにでも、壁か花崗岩でも見つけて僕は突進し頭から激突する!その激しさたるや僕の目玉は飛び出し、脳みそが噴出するのだ こんなこと言われて、百年の恋も冷めないっすかね・・・? その激しい一言が原因でニコレットは旅立ちを決意したのかもしれないよ・・・ まー、紆余曲折をへてハッピーエンドなんですが。 オーカッサンとニコレットが逃避行の途中で立ち寄る王国も、なかなかキてます。 女王が戦争に出かけて、王様は寝ている。 オーカッサンが様子を見に行くと、 「妊娠している」と言い張るんです、王様。 「生まれるまで寝てなくちゃだめなんだ、だから奥さんが代わりに戦争にいってるの」 この直後、王様はオーカッサンにお仕置きされます。 Aucassinって日本語で読みを書くとどうも「オッカサン」と見えてしょうがない。 古フランス語の試験勉強なので、フランス語もなんか「オェ」とか「ウェ」とかいう発音にやられておかしくなってます。語尾ツ現象もあり。 これからラテン語をやるので、発音はさらに混迷を極めてきそうでつ。
シモネタエクスポゼ
怒涛の課題提出の山を越え。 水曜日に中世文学Robert le Diable「悪魔ロベール」のコモンテール・コンポゼ4ページを提出し、昨日、先日延期になった Le théâtre de la Foireのクラスのエクスポゼ Olivette juge des Enfers「オリヴェット、閻魔になる」(題意訳)についてを無事終了。なんか悪魔がかっていますが。 実は、このエクスポゼがわたしにとっては大きな大きな難関だった。
ナント大学文学部のカリキュラムでは、2年生から「Oral」という項目が必須で追加される。生徒は試験とは別に、学期中に必ず一科目をEcrit、すなわちDissertation(6ページほどの小論文)、残りをOral、口頭での抜粋分析・またはテーマを与えられて総括的な作品分析をしなければならない。 去年まで、私は尊敬するベルティエ先生でこのOralを受けていた。 ただし、クラス内ではなく、先生のBureau(個人オフィス)で。 クラスでみんなの前で発表するのは、それなりの肝っ玉がないとつらい。 さすがのわたしもクラス内でのOralは避けていた。 避けつつ、なーんか、やっぱり釈然としない。 卒業するまでに一度は乗り越えなくちゃいかんぞな・・・と、勝手にハードルをつくりながらも、あれこれ心配をしたり。 けれど、このLe théâtre de la Foire(18世紀、パリで開かれた市で行われた大衆劇・オペラコミック)で「やるしかない」と決めて準備を始め、あれよあれよという間に当日。自分でも不思議だったくらい、平気にできてしまった。 あれほど恐れていたのに! その原因のひとつとして、取り上げた作品が分析するのにとても面白かったからというのが大きいかもしれない。 わたしが選んだのはAlexis Pironという劇作家・詩人のもの。かなり濃い人でした。コメディ・フランセーズでも作品を書いていて、アカデミー・フランセーズに選ばれかかったのだけれど、Ode à Priape「プリアポスへの抒情詩」という作品があんまりにも卑猥だったので、ルイ15世が反対して入れなかったという強烈なエピソードがあるくらい。 ピロンは悔し紛れに、墓碑銘に 「Ci-gît Piron qui ne fut rien / Pas même académicien」 (ここに眠るはピロン、なにものでもなき者 / アカデミシァン(アカデミー会員)でさえもなし) なんてものを作ったりした。ちなみに、プリアポスはディオニュソスとアフロディテの息子で、偏執を体現する人物だそうな。 彼の作品はあふれんばかりの皮肉と下ネタで、エピグラムなんかも強烈。
Certain abbé se manuélisait Tous les matins, pensant à sa voisine. とある大修院長は、日課に 毎朝、隣に住む女を思っていた。
Son confesseur, l’interrogeant, disait ; Vertu de froc ! c’est donc beauté divine ? 聴罪司祭が彼に向かいこう尋ねる、 高潔なる僧侶よ!もちろん、聖なる美への、でしょう?
Ah ! dit l’abbé, plus gente chérubine Ne se vit onc ; c’est miracle d’amour ; ああ!神父は答える、もっとも愛らしき天使ケルビムは 現れやせぬ。
Tétons dieu sait ! et croupe de chanoine ! Toujours j’y pense, et même encore ici Je fais le cas. それよりこれぞ愛の奇跡であろう、 神のみぞ知るあのおっぱい!教会参事もびっくりのけつ! 常に思い浮かべてしまうのだ、そういう今も そうなのだから。
Pardieu, lui dit le moine, Je le crois bien, car je le fais aussi. なんてこと!司祭は答える、 お気持ちよくわかります、私もやってますから。
©まり訳(韻がうまく訳せてません・・・)
フランス人のあほなくだらなさ、やっぱり好きさ。。。 テアトル・ド・ラ・フォアールはこれまでほとんど研究されてこなかったので、ピロンの作品についてもあまり知られていません。この作品集は、今回クラスを取ったフランソワーズ・リュベラン先生の監修で出版されたばかりなんだそう。 ちなみに上のエピグラム、「いやー、私にはとてもみんなの前で音読する勇気はない」とおっしゃっていました。 このシモネタ満載のエクスポゼ、16点もくださいました。ありがたやー。Pironありがとう。(フランスの大学での評価は20点が満点です)