Bonne annee 2014 ! 本日は執筆リハビリも兼ねて、フランス語に関係あるようなないような話をしてお茶を濁そうと思います。今年のセンター試験の国語、岡本かの子の「快走」でしたね。岡本かの子といえば、代表作ではないものの、われわれ(?)の場合は「巴里祭」という作品が思い浮かびます。
Read MoreL'effet secondaire (副作用)
なんにも言えね。
昨年、『好酸球性肺炎』という、一見アスリートがかかりそうな名前の病で入院してから2ヶ月に一回の検診を受けている。
なんらかのアレルゲンに対するなんらかのアレルギー反応で起こる肺炎で、私の場合、アレルゲンは多分アレだとわかっているもののはっきりと断言するのはアレらしい。なんか、あれだね、こう、あれだよね。
治療の関係で、今回は耳鼻科でCTを撮ることになり先日行ってきました。去年撮った時はただ白くでっかい輪の中に寝て入っていくだけだったのだけれど、今回は「造影剤を使います」と言う。バリウムのように飲むのかと思ったら腕から点滴で入れるというのだから、それだけで半歩後ずさり、そこに追い討ちをかけるように先生が隣の看護師さんと微妙に顔を見合わせ、
「肺炎の時は使わなかったんだっけね・・・うーん、稀にね、具合悪くする人もいるからね、肺炎ね・・・うーん」
と言いながら私に同意書を差し出す。いたずらに不安を煽るとしか思えないこの独り言が「医師による適切な説明があった」ことになるんでしょうか。まあ、いままで、その類で「具合が悪く」なったことはなかったので、持ち前のオプティミズムを発揮してサインをしてしまった。
細長いベッドに寝て、胸の前で手を交差するどことなく乙女チックなポーズでぐるぐる固定され、あんぐりと開いた白いドーナツに胸の辺りまで入って放射線をさんさんと浴びる。いよいよ点滴の登場。
私はとても細いペン先で書かれた文字とか細かい模様とかが比較的苦手で、なんかもうわーとなってしまうので、注射もあまり得意でない。しかも、それが自分の体内に入ったままという異物混入感にも軽く恐怖を感じる。覚せい剤とか絶対できないね。すでに心拍数があがっているところに、看護婦さんが「私がここについていますから、具合がわるくなったらおっしゃってくださいね」と励ますように言う。かんごふさんのこういうところをかんちがいしてかたおもいがはじまるのかしらん。
「それでは造影剤入れますね~」というスピーカーからの声が聞こえたとたん、体の内側がぶわわとあっついようなさむいような不思議な感覚にじわじわ犯されていく。なんか入ってる、血管に。「わわわわ、わ~」34年生きてきて己の身体に異物が入る経験はそれなりにあったけど、血管プレイは最悪よね。ヤバイ。発作が起こる前の気道が狭くなる予感がする。心臓がバクバクする。早くやっちまってくれ、や、もうわけがわからん、「窓から飛び降りるわ!」という美輪明宏の声がジァンジァン回る。
結局、撮影は中止せずになんとか終わったのですが、よくわからないダメージを受けてしまい、呆けたまま病院を出てそのまま夢遊病者のように図書館に行き、気がついたら「人間失格」を手にしていました。
昔付き合っていた人は、最初のデートでわたしを三鷹の禅林寺に連れて行き、これが森鴎外。森林太郎て書いてあるけど、とお墓に買ってきたおすしをお供えし、自分もむしゃむしゃ食べ、こっちが太宰の墓、とビールをお供えし、その前で黙って迎酒をした。普通の二十歳前後の乙女ならどん引きどころか確実に全力で逃げていたであろうどん底デートプランに脱帽というか脱力。普通の二十歳前後の乙女規格からはみ出ていたわたしは、当時劇団を辞める辞めないですっかり参っていて、うっかり着いて行ってしまった。合掌。
造影剤には、過去を陽炎のように映し出すという結構危険な副作用があったみたいです。
フランス語の手紙 その2
その1で例に挙げたアルベール・カミュとルネ・シャールの書簡集。 ジャンルは違えど、二人の「auteurs(オター、著者)」が綴るフランス語は、まさに生きたお手本になる。フランス語学習者にとってはあらゆる面で「使える」のではないかと思い、今回自分のFLE(フランス語教授法)の「l'écrit」(筆記)の教材として取り上げた。
フランス語の手紙でまず考えなければならないのは、「距離感」。 相手との親しさの度合いにより、文体も変わる。使える「モード(mode、法)」も変わる。 距離感を出すとニュートラルで複雑な文体になることが多い。 個人的な感情や事情をできるだけ押さえ、ベールに包んだ表現をするから、恐ろしくまどろっこしくなる。 必要以上に踏みこまない礼儀。 難しいのはそのニュートラルな文体の中でいかに相手に自分の想いを伝えるかで、お役所の送ってくるような手紙で初めて個人とコンタクトを取るのはかなり味気ない上に、貰ったほうもどうしていいか困ってしまう。
シャールは一番最初の手紙で、馴れ馴れしくなく、うやうやし過ぎずにカミュへの熱烈なる賛同を短い文章で記し、更に「会ってお話したい」という希望もきちんと伝えている。 それに対するカミュの返事は、更に気遣いの含まれた内容でさすが、と思わせる。 シャールとまだ完全に親交を結んでいない状態なので、ニュートラルな文体は変わらないのだけれど、ちらり、ちらりとシャールに対する好感を言葉尻に含めて、快い返事が返ってくるだろうか、とドキドキしているだろうシャールを安心させるように、自分は不快でないこと、シャールの申し出をうれしく思うことを伝える。 この二人は、その後ぐっと親しくなるのだけれど、最後まで「vouvoiement(ヴヴォワモン、Vousで会話すること)」を続けた。 確かに、昔はノーブルな家庭では親子でもvousを使っていたし、「同士」が流行っていた当時としては互いに尊敬をこめてvousで話すのが普通だったのかもしれない。 それに、二人の男はただの人じゃなくて、時代を代表する詩人と未来のノーベル賞作家だったわけだし。
vousを使いながらも、親しさを表現する方法はこの本の中にちりばめられている。相手の健康を気遣う言葉、相手の新作に対する熱い賞賛、どれもさりげなさの中に温かく表現されている。これは、書き手の巧さもあるけれど、受け取ったほうの読解力の高さも必要になる。 たとえば、カミュがシャールの新作を評価する時に、心を打たれただのすばらしいだのという月並みな表現はほとんど使われない。では、どうするのかというと、 シャールの作品の抜粋を手紙の中で使う。 これにより、一言も賞賛の言葉を加えなくても、カミュがシャールの詩を読み、抜粋部分が特に気に入ったということを伝えている。 フランス人は一般的にほめ上手でお礼上手だ。それは、手紙の表現の豊富さからもよくわかるし、どんなにひどい出来のものでも良いところを見つめようとする。(逆に、けなし上手でもある。本当にイジワルにインテリジェンスを持って批判するのが巧い。) 彼らにとって、言葉の選択、表現力、読解力というのはその人自身のセンスと品格を問われる重要なアイテムなのだろう。
普段、日本語でメールを書いている時そんなつもりはなくても、自分のことばかりを相手に押し付けて、後で慌ててとってつけたように相手の様子を聞いたりするような内容で、自分でいやになってしまうことが多い。 カミュとシャールのように、相手の活動に心から興味を持ち、それに触発されてまた自分の新しい作品につながっていくという交換は本当に理想的だなぁと思う。そういう相手を一生のの中、一人でも見つけられたら、そしてそんな風に関係を繋げられる相手にふさわしい自分でいられたとしたら、それは幸せと言えるだろう。築かれた二人の悲しく美しい友情は死が分かつこともなく、人から人へと語り継がれて行くのだから。
* * *
カミュの事故の2日前、シャールはカミュの家に遊びに来ていた。帰り際、彼らの共作La Postérité du soleilについて話していた時、カミュはシャールにこう言ったらしい。
"René, quoi qu'il arrive, faites que notre livre existe !" 「ルネ、何があろうとも、僕らの本が残るようにしてくれよ!」
1960年1月17日、シャールはCiska Grilletに手紙を書いている。
"Tu penses que je t'oublie, n'est-ce pas ? Combien non ! Mais écrire à ceux que l'on chérit se fait,(me fait) mal. Ils vous habitent, et alors on leur parle. Comment est-ce que je vis par ailleurs ? Je n'en sais rien. Je suis venu ici pour - après avoir passé une journée avec lui ! - ensevelir Camus. Etrange monde. Présence absence, Royaume de l'éclaire et du chagrin. Prenez bien garde à vous, Ded et toi. Je vous en prie."
「僕がきみの事を忘れたと思っているだろう?違うに決まってるだろ! けれど、愛しんだ人々について書くということは、(僕)自身を苦しめることなんだな。彼らは君らの中に住んでいるんだよ、だから僕らは彼らに話しかけるんだ。そうでなけりゃほかにどうやって僕が生きていられるんだい?僕にはわかんないよ。ここに、 ― 彼と一日過ごした後で ― 僕はカミュを埋葬しに来たんだ。奇妙な世界だよ。存在、不在、光と悲しみの王国だ。どうか身体を大切に、デッドときみ、二人とも。お願いだから。」(抜粋はすべてCorrespondances Camus - Char 1946-1959, éd.Gallimard, 2007より、抜粋部分の訳はまりによるものです)
Aucassin et Nicolette。試験勉強
予想通り、一週間「あ」といっている間もなく過ぎる。試験は今週の水曜日からスタートしました。
Naie voir, tant n'atenderoie je mie; ains m'esquelderoie de si lonc que je verroie une misiere u une bisse pierre, s'i hurteroie si durement me teste que j'en feroie les ex mix a morir de si faite mort que je seusce que vos eusciés jut en lit a home, s'el mien non. Non, non, je n'attendrais pas tant, mais d'aussi loin que je verrais un mur ou une pierre de granit, je m'élancerais et m'y heurterais la tête avec une telle violence que je me ferais sauter les yeux jaillir toute la cervelle. Aucassin et Nicolette, XIV, GF-Flammarion, 1984, Edition Jean Dufournet. オーカッサン エ 二コレット。 12世紀の終わりから13世紀の始めの作品と思われる。「chantefable(シャントファーブル)」と呼ばれるスタイルはchanté(シャンテ。謡)とParlé : récit et dialogue(語り。物語と会話、つまりはファーブル)が交互に組み合わされていて、chantéの部分だけ見るとギリシャ悲劇のコロス(choeur)のような印象がある。次の語りの部分の要約をvers(韻文)で綴る。語りの部分はprose(散文)。 大人達に引き裂かれる若い二人オーカッサンとニコレットの恋・・・ロミオとジュリエット、ピラムとティスベのような悲劇を髣髴させる導入。 に、だまされてはいけません。フランスですから。 (ピラムとティスベもフランスですが) この頃に書かれた作品、FabliauxとかLe roman de Renartとか、こぞってロマン・クルトワ(騎士物語)をパロったものばかりで、このオーカッサンとニコレットもその仲間に入ります。 ニコレット(女)はカルタゴの王女なのですが、小さいときに異人さんにつーれられーてー、ブガー・ド・ヴァロンス伯爵に買われ(!)娘として育てられます。伯爵と長年喧嘩(戦争)をしているのがガラン・ド・ボーケー伯爵、オーカッサンはその息子なのです。 どうでもいいけど、中世の人名って半端じゃなく変な名前が多すぎる・・・ で、ボーケー伯爵は息子をだまして戦争にださせてニコレットを忘れさせようとしますが、オーカッサンは反抗。結局塔に隔離されてしまいます。ニコレットはニコレットで別の塔に養父に閉じ込められているのですが、抜け出し旅に出ます。その直前、塔の中と外でオーカッサンとの別れでのやり取りで、オーカッサンの涙の訴えが上の抜粋。 一応、ここはメロドラマな場面なのでしょうが、現代的感覚で読むと突っ込みどころ満載です。(最初のパラグラフが古フランス語、次が現代語訳) 国外へ逃亡するというニコレットに、オーカッサンは「君に最初にあった男は君を連れ去りベッドへ連れ込むだろう、そうなったら君はそいつの愛人になって僕の愛なんか忘れてしまうんだ・・・」とぶちぶち。続いて、「そんな君と再会する位なら今すぐ死んでしまったほうがどれだけましか」と、激しく愛を訴えるシーンなんですが。 嫌だ!こうなったらすぐにでも、壁か花崗岩でも見つけて僕は突進し頭から激突する!その激しさたるや僕の目玉は飛び出し、脳みそが噴出するのだ こんなこと言われて、百年の恋も冷めないっすかね・・・? その激しい一言が原因でニコレットは旅立ちを決意したのかもしれないよ・・・ まー、紆余曲折をへてハッピーエンドなんですが。 オーカッサンとニコレットが逃避行の途中で立ち寄る王国も、なかなかキてます。 女王が戦争に出かけて、王様は寝ている。 オーカッサンが様子を見に行くと、 「妊娠している」と言い張るんです、王様。 「生まれるまで寝てなくちゃだめなんだ、だから奥さんが代わりに戦争にいってるの」 この直後、王様はオーカッサンにお仕置きされます。 Aucassinって日本語で読みを書くとどうも「オッカサン」と見えてしょうがない。 古フランス語の試験勉強なので、フランス語もなんか「オェ」とか「ウェ」とかいう発音にやられておかしくなってます。語尾ツ現象もあり。 これからラテン語をやるので、発音はさらに混迷を極めてきそうでつ。
屍鬼二十五話―インド伝奇集
ソーマデーヴァ
平凡社
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(1978-01)
「フラ語脳になると、不安思考が減る?」という話をしようと思ったのですが、ちょっと一休み(してばかりでごめんなさい)。 今週の月曜日は英語のエクスポゼ、昨日は比較文学のミニテスト。ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー(屍鬼二十五話)についてです。 この話は、設定がぶっとんでいて、単純に楽しむことができます。 (フラ語でしか読んだことがないので、日本語訳が面白いかどうかはわかりません。日本に帰ったらぜひ読んでみようと思っています)
インテリジェンスと勇気・行動力にバランスよく長けたトリヴィクラマスナ王の元に、物乞いが毎日フルーツをささげにやってきます。
王は黙ってそのフルーツを貰い、家臣に渡す毎日なのですが、ある日、飼っているサルに捧げ物のフルーツを与えたところ、フルーツの中から宝石が出てきました。家臣に問いただしてみると、確かに、今まで物乞いが持ってきたフルーツは腐ってしまって食べられなくなっているものの、一つ一つの中から宝石が・・・
王は、次の日に物乞いがやってきたときに、なぜこのようなことを自分にするのかを聞きます。物乞いは実は修行者で、受肉(神の子が人間の肉体に宿り生まれること)を実現させるために「強いこころを持つもの」の援助が必要だと説明します。そのためには、夜ふけてから、王は物乞いの待つ墓地に行き、木にぶら下がっている死体を彼のところまで運んでこなくてはなりません。
勇気ある王は木のところまで行き、死体を下ろすのですが、死体を担いだとたんその死体に取り付いていたヴァンパイアが現れます。
「お前さん、この夜中に死体をこんな風に担いで歩いていくなんてご苦労だね。道々退屈しないようにひとつ面白い話をしてあげようか・・・」
こうして、ヴァンパイアは全部で24の話をするのですが、各話の最後には必ず王のとんちを試す問答が行われます。これに答えられないとヴァンパイアは王を殺してしまうと脅すのですが、頭のいい王は難問に答えることができます。
しかし、正解するとヴァンパイアは魔法の力で死体もろとも消えてしまい、王はまたもや死体を捜しに木のところまで戻らなければならないのです。
モラルを含めた筋から説教っぽいオチになるのとは違い、 かなりなんでもありの人間関係(浮気・不倫は常套、レズ関係なんかもあり)、シヴァ神をはじめとした伝説の神々がぞくぞくでてくるし、スパイスの効いた結末、トリヴィクラマスナ王の見事な返答、さらには25番目のエピローグに驚きの結末が隠されているという、大人も子供も楽しめる筋になっています。
kāvya(カーヴィア)と呼ばれる美文体で書かれているので、自然や天体などを隠喩に使ったり、言葉遊びをふんだんに取り入れて語られ、エロティックなシーンが壮大なイメージになったりしてどきどきします。例えば、ある王様が隠者の娘を見初めて、彼女を連れて王国に帰る途中、夜になってしまったので野宿をするのですが、夜の闇の中で突如現れる美しい月が「大洋を胸元に引き寄せ、口づけをした」と語られます。 サンスクリットでは月は男性名詞、大洋は女性なのです。
この25の話は、仏教の哲学が根底に流れているので、一つ一つの話に隠された人間の業やそれに伴う因果、真の王とは何なのかという問いかけ、諸行無常、諸法無我、一切皆苦が自然に示され、この話を読むことで「ダルマ(法、真理)」を得、人々が解脱をする助けになるように、という願いがこめられています。
私自身は無宗教ですが、育ってきた環境や、個人的な価値観から、私にとっては仏教の教えはより親しみやすいと感じます。これは自然なことだし、だからといってキリスト教を否定するという意味ではありません。 キリストもお釈迦様もそのほかの聖人と呼ばれる人たちも、みんな同じことを言っているのだと気づいている人はこの世の中にたくさんいると思いますが、その表現の仕方・言葉の捉え方が誤解を生み、こうして「宗教」というものが形成されている世界があるのかもしれません。
このヴァンパイア物語を読んで、ああ、仏教をちらりとでも理解することができる土地で育ててもらってよかったなぁーと思いました。 ちなみに、この元祖ヴァンパイアは「とり付く者」という意味があるそうで、西洋のヴァンパイアとは全く種類がちがうようです。
しかもこの人(?)、実はいいやつだったりして・・・おっと、これ以上言ってしまうとネタバレしてしまう。 今も昔も、究極のところ、見かけでしか判断していないと、底に眠る「宝物」に気づくことができないのですね。
ところで、太極拳は中国文学がきっかけで始めましたが、今回はこのサンスクリットを調べているときに、肩こりを直すのにヨガをちょっぴりかじってみて、すっかりはまってしまいました。あちこち筋肉痛ですが身体は快調です。