Bonne annee 2014 ! 本日は執筆リハビリも兼ねて、フランス語に関係あるようなないような話をしてお茶を濁そうと思います。今年のセンター試験の国語、岡本かの子の「快走」でしたね。岡本かの子といえば、代表作ではないものの、われわれ(?)の場合は「巴里祭」という作品が思い浮かびます。
Read More文法を学ぶということ(後編)
「文法は誰のためにあるのか?」から「どう生きるか?」へ。初級学生達30人に文法を学ぶことに関するアンケートをとった「語学にとっての文法」についての考察。小論文も結論に向かいます。
Read More文法を学ぶということ(中編)
会話ならめんどくさい文法など使わずに、ジェスチャーや気持ちでなんとか通じさせればいい。そもそも、文法なんて実際には使っていないのでは?という疑問から「対人」という発想へ。初級学生達30人に文法を学ぶことに関するアンケートをとった「語学にとっての文法」についての考察。
Read More文法を学ぶということ(前編)
フランス語を始めたばかりの学生達30人に文法を学ぶことについてのアンケートをとりました。彼らが文法学習を、そして語学をどんな風に捉えているのか、私たちの考えがどれだけマスコミやオトナ達の意見に「洗脳」されているのかが顕著になっています。
Read Moreパンツが見えてはいけないのだ。
20代のはじめ頃、パントマイムを教わりに行っていた。
そのころ研究生だった劇団のカリキュラムで週に1回授業があって、ほんのさわりを教わった。先生はおかっぱで、下半身のぴっちりしたダンス用のパンタロンをはいたおじさんで、もうこれ以上ないくらいはげしく怪しかった(実は知る人ぞ知る偉い人だった)のだが、わたしは昔から、蛾が街灯にわらわらと集まってしまうように、怪しいところにふらふらと近寄ってしまうたちで、劇団の同期に誘われ、気がつくと夏休みに先生のレッスン場に通うことになっていた...
Read MoreY a loin d'la coupe aux lèvres
photo credit : Anthony Georgeff
ここを作るのにだいぶ時間が経ってしまった。数日ずっとよくわからないWordpressをいじっていたので、器官(弱い)に疲れが直撃。
週1でフランス語を教えている専門学校の教務室では、色々な先生たちと一緒になる。みなさん大先輩なのだが、様々な逸話を聞くのを、常日頃密かに楽しみにしていた。学期末の先日、恒例の2コマ連続授業があった時、ある先生に聞いた話:
先生(おそらく六十代)がその昔大学生だった頃、第2外国語でドイツ語を選択した。
担当した講師はドイツ人男性で、おっかない先生だったという。
「文法なんて考える必要はない。俺の言うことをそのまま丸暗記しろ。」
という軍隊タイプだったらしい。(今だって、こういう先生はたくさんいると思う。)
その先生が、最初の授業の時にこうおっしゃったそうだ。
「『きく』という漢字は二つあるだろう。もんがまえの「聞く」という字はどういう意味か知っているか?門の中に耳を閉じ込めて外から入ってくるものを排除するのが「聞く」だ。おれの授業はもんがまえの「聞く」できくな。みみへんの『聴く』は耳できいたことを十四遍、心で繰り返すという意味だ。だから、おれの授業は『聴く』できけ。」
ドイツ人の先生の一人称が「おれ」というところで、わたしなんかはもうびびってしまったのだけれど、最初の授業でドイツ語だと思って行ったのに、いきなり漢字の講釈から始まったので、生徒達はさぞかし面食らったことだろう。
私も授業でよく日本語の質問をする。「名詞ってなんですか?」とか「形容詞ってどんな働きがあるんですか?」と聞くと、大概、生徒達は目を白黒させてしまう。しかし、母国語の品詞がなんのことやらわからなければ、外国語なんて勉強できない。外国語学習というのは、単純に言葉を移し替える作業のことを言うのではないから。
ところで、昨晩テレビで「やたら昔を懐かしむ20代」というレポートを見た。
就活を始めようかという大学3年生たちが中学時代の友達たちと京都旅行に行くのだけれど、京都に着いたら、中学の制服に着替え、持って来たその時のアルバムをもとに、修学旅行で行った道のりを一生懸命たどっていた。
なぜ、そういうことをするのかと聞かれて、女の子はこう断言した。
「それくらい、最高に楽しかったからです。」
行ったことのないところに旅行をしてみたくはないか?という質問に、
「知らない場所だと、何があるかわからないし、不安になる。やっぱり安心感が大切っす。」
と、男の子がはにかみながら答えた。
別の大学生は、すでに就職先も内定しているのだけれど、高校の時のメールを全部保管していたり、思い出のアルバムをしょっちゅうひっぱり出して眺めたりして自分を励ましているそうだ。高校時代のプリントも教科書も「思い出は糧」と全部とってある彼は、缶蹴りやだるまさんころんだなどの昔の遊びをやったり、高校の時の制服を着て、文化祭の相談をするHRを再現して録画したりするサークルのリーダーをやっていた。
どの映像からも、不安そうな若者たちの姿が見えた。未知の世界に踏み出すのが怖い、知らないことが怖い、知っていることに囲まれていると安心するから、そこから出たくない。傷つきたくない。 新しいことを見つけるかもしれないというわくわくした気持ちよりも、そこへ飛び込むまでの不安定な事態にどうしようもなく恐怖を感じてしまうのだろう。
小学生低学年の時通っていたスイミングスクールでは、定期的に進級試験があった。決められた泳法で決められた距離(バタフライ以外50mが最低距離)を泳ぎきらなければいけないし、水中でくるっと回るターンなんかもちゃんとできないといけない。泳ぐのは好きだったのだけれど、試験は怖くて嫌いだった。プレッシャーで、普段泳いでいるプールで溺れるのではないかという妄想に完全に挙動不審になった小2まりは、毎回試験前に緊張のあまり泣きわめき、トイレで泡を吐いた(吐くものが無くなって、胃液)。しかし、試験が始まればぺろっと泳いで、「へへへぇ」と、へらへらしながら帰ってくる、非常にめんどくさい子供だった。
たった十数年(はっきりした意思や記憶が形成されてからの年数はせいぜいそれ位だろう)しか生きていないくせに、すでに「ピーク」を自分の中で限定してしまっている「あの頃はじいさんばあさん」のような若者達を見ていて、そんなことを思い出した。
外国語学習をはじめる人にも、「未知の言語を学ぶことに対する漠然とした不安」というのが必ずある。こんなたくさんの単語をどうやって覚えるんだろう、こんなややこしい決まりをどうやって使いこなすのだろうと、わたしも初めてNHKのフランス語講座のテキストを買った時に絶望に近い気持ちになった。
けれど、始めて見るとわかる、実は新しいものを自分の中に取り入れる時、一番向き合わなければならないのは、新しいものではなく、むしろ、いま、そこにある自分自身だったりする。
ここで、冒頭のドイツ語の先生の話にループするのだけれど、外国語を勉強するとき、まずぶち当たるのは、母国語の壁だったりする。
外国語をやる時には、日本語での体系的な文法知識・理解力と明解で論理的な思考力が必要になってくる。という書き方をするとおっかない印象になってしまうので、例をあげると、日本語で「きれいな」と「きれいに」の違いがわからないとフランス語は上達できないし、「Qu'est-ce qui vous importe dans la vie ? (あなたが生きる上で大切だと思うものはなんですか?)」という質問にうまく答えられないのは、実はフランス語力より日本語での発想力・思考力が問題だったりする、ということ。
逆に考えれば、フランス語を学ぶことで、自分の母国語での思考能力を再構築するいいチャンスになる。
言語には、その土地にしかない独特の概念やイメージというものがある。だから、上手く訳せない言葉にもたくさん出会う。つまりは、母国語だけで生きていては、一生出逢うことのないようなことばたちに触れることで、母国語だけで生きていた時よりも、視野も考え方も懐も拡張され、豊かになる。
(ただし、これはあくまで外国語使用前の自分との比較であって、他人との比較ではない。他人との比較でこの定義が当てはまっては、マルチリンガルほど豊かな人であるということになってしまう。非常に知識豊かで能力の高い人もいるだろうけれど、その人が人として「豊か」かどうかは一概には決められない。また、外国語をやることで知識だけが豊かになって、ちっとも人間力が上がらない人もぞくぞく存在する。)
学ぶ、ってそういうことなんだろうなぁ、と最近思う。 就職に役立つとか、意中の人を落とせるとか、儲かるとか、そんな「わかりやすいメリット」がないのに、なんで面倒な外国語を勉強しなくちゃならんのだ、と思う若者がたくさんいると思うけれど、外国語学習を通して、人は色々な自分に気づくことができる。人としてのスキルも上がる。そういう意味では上記の「メリット」だって期待できる。
例えば、外国語では、自分の考えを明確に述べさせられる訓練が非常に多い。そこで、単に自分の意見を振り回すより、他の人の意見を汲んだり、場に気を遣ったりすることができるようになれば、集団面接などでは抜群の効果を発揮する(面接は、気づいていない人が多いが、ライブ感が重要で、どんなにいいことを言っていたとしても、用意して来た台詞の棒読みでは、面接官はうんざりするだけだ)。 それは、場合によっては意中の人を落とす力にだってなるだろうし、ビジネスでも使える力となる。
何よりも、どうしたらいいだろうと考え、自分の中の原石を夢中で磨いていると、やがてその光が外側にも漏れだして、人はきらきらしてくる。そういう人が魅力的でないはずはない。
そういうまぶしい若者が増えるといいなぁ。 そういうまぶしい中年も、老人も、増えるといいなぁ。
。。。。。。。。
タイトルは、「Il y a loin de la coupe aux lèvres (杯から唇までは遠い)」 つまり、「言うは易く、行うは難し」。
はずかしげもなく2日に1回の更新の誓いをしたけれど、まぁぼちぼち、お付き合いください。
希望実現(となるかもしれない現在)形
みなさまのご健康と幸福を願って。
あけましておめでとうございます。
このブログ、年末年始には滅法弱く、昨年もぬるぬると終わり、新年の挨拶よりも新成人の「あざ~す」のほうが交わされる日に、こっそり更新(すみません...)。
しかし2013年はこれまで通りだと思うなよ!
と、負け犬の遠吠え的にいきっているのはなぜかと言えば、土曜日のアトリエで現在形と単純未来形のニュアンスの違いをやっている時に、今年実現したいことの例として、
「今年はブログを2日に1回更新する」
という例文をうっかり作ってしまったからだった。うっかりにしては、「毎日」としない所が、すでに心の弱さが浮き彫りになっているような気もするけれど、リアリストなんじゃいとねじ伏せる。あと、兼業主婦なんじゃい。
もう半ばやけくそ気味にこの例文を使って、現在形と単純未来形のニュアンスの違いを説明すると、
現在形 Cette année, je rédige mon blog tous les deux jours. (今年、自分のブログを2日毎に執筆します。)
未来形 Cette année, je rédigerai mon blog tous les deux jours. (今年、自分のブログを2日毎に執筆するかもしれないな~。)
語法によって、これくらい実現に向けた気合いの差があります。 なので、目標とか、叶えたいことは、なるべく現在形で表明するがよろしい。カミュもこう言っている:
Supprimer l'espérance, c'est ramener la pensée au corps. ( 希望を消去すること、つまり思考を身体に引き落とすことだ。)
この殺伐とした世の中に希望を持つな、ということではない。
「現実」は、すべて己が作り出している、とあちこちで読んだ。 昔、大失恋した時に、自分が望まない現実と自分の中の望みの折り合いがつかず、どうしていいか途方に暮れたことがあった。こんな現実、わたしは作ってない!と暴れた。
それから何年かかけて冷静になってみてひとつ気づいた。希望が叶わない時というのは、大体望み方が間違っている。
つまり、「Aでありますように」「Aになりたいです」というのは、自分がAではない と宣言しているようなものなのだ。だから、その方法で熱烈に望めば望むほど、「Aであるよう望んでいる自分」しか現実に現れてこない。
カミュが言うように、希望を持っているうちはそれは実現できない。希望として自分の頭の上あたりにフワフワと「~ならいいのにな~」と漠然と漂わせているうちは、本気でそれを実現しようとは思っていない。ほんっとーうに実現する必要があれば、そのたゆとうておるものを自分の身体の中に引きずり込み、あれやこれやと動き出すのだ。
それでも、まだ実現していないことを、実現したこととして思考を処理するのはなかなか難しい。 いくら「Aになれます(もっと言えば、「わたしはAです」)」と自分に言い聞かせようとしても、長年の思考の癖で「いや、まだなってないじゃん」 と、つっこみを入れる自分がいるわけです。そこをどうだます(?)か。
この世ではあらゆる人があらゆる思考を放っているわけで、その思考のマトリックスの様相で、自分の「現実」もどんどん動いていく。だから「ドラマチックな展開」なんかもあったりする。「Bさんと付き合いたい」なんぞのお願いは、自分の想いのみで実現するわけではないので (Bさんにも選ぶ権利がある)、実現プロセスはややこしくなるのだろう。けれど、自分ひとりの思考をコントロールすることである程度実現可能なものに関してはもう、現在形、というか過去形で表明していく。
納得しない思考の「つっこみ停止」をさせるには動くのが一番、てなわけで、こうして新年にフランス語についてなんだかなんなんだかよくわからないブログを書いている。おお、期せずして入れ子式展開になった。
長年、積み重ねの力というものを実感してみたいなぁと思いながら、だいたい途中で放棄というか放念していたので、今年はなんとなく粘り強くやってみようかという気にもなっています。古い諺も言っているので:
思想の種を撒きなさい、行動という実を収穫できるから。 行動の種を撒きなさい、習慣という実を収穫できるから。 習慣の種を撒きなさい、人格という実を収穫できるから。 人格の種を撒きなさい、運命という実を収穫できるから。*
*ちなみに、「行動の種を~」以下はダライ・ラマの名言とされているらしい。また、これの変形バージョンが、日本では大変有名な「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから・・・」で、なぜか日本ではマザー・テレサの言葉になっている(本当のところ、誰の言葉かは不明)。
フラ語部復活↓(フラ語部とはなんぞやという方はこちら)
La fin d'année 2012 comme d'hab : pas de bonjour ni de merci pour les lecteurs, et me voici au premier article de la nouvelle année, deux semaines après du premier jour de l'an...malgré moi.
Toutefois, Mari de 2013 n'est plus comme celle des années passées, na !
Au premier cours de l'atelier Samedi (la semaine dernière), on a parlé de la différence d'expression au présent et au futur simple. Et j'ai donné un exemple qui déterminait mon destin :
(Présent) Cette année, je rédige mon blog tous les deux jours. (Futur) Cette année, je rédigerai mon blog tous les deux jours.
La nuance des deux phrases est claire. Au futur, on ne sait pas si je rédige vraiment mon blog, alors qu'au présent, il y aurait déjà une légère nuance d'accomplissement. Et c'est là, la clé de réalisation d'un voeu ;
En général, quand on parle d'un voeu, on n'utilise pas directement un verbe au présent indicatif, mais on met plutôt le verbe « vouloir » (et souvent au conditionnel).
Or, j'ai souvent rencontré la phrase : notre vie réelle consiste en tous nos pensées. Cette idée m'avait beaucoup attirée jusqu'à ce que j'aie eu une grande déception amoureuse... Alors, je me suis perdue entre mon espérance et la réalité qui ne reflétait pas mes pensées. J'ai dit : « Ma vie réelle a trahi mes pensées ! »
Je comprends maintenant mieux : n'empêche, notre vie consiste en tous nos pensées (ou en partie). Mais quand on n'arrive pas à réaliser ce qu'on pense, c'est que, l'on le déclare pas de bonne façon.
Albert Camus dit :
Supprimer l'espérance, c'est ramener la pensée au corps.
C'est-à-dire, on ne peut pas réaliser ce qu'on pense tant qu'on le « souhaite". Quand on souhaite une chose, la vie continue à réaliser sincèrement ce qu'on souhaite. Le résultat : on continue à souhaiter (puisque notre vie reflète nos pensées !)... Quel horreur !!
Il faudrait donc parler au présent indicatif quand vous parlez de ce que vous voulez réaliser. Comme ça, vous pouvez peut-être tromper vos pensées très « réalistes » qui ne vous croient pas facilement en grognant : " Mais non, ce n'est pas encore réalisé, pourquoi tu parles comme si tu avais déjà accompli ?"
Enfin, comme j'ai déclaré, j'écris ici pour réaliser ce que j'ai dit : rédaction de mon blog tous les deux jours. Continuer quelque chose pendant certaine période, cela donnera quand même quelque résultat comme dit un vieux proverbe :
Sème un acte, tu récolteras une habitude ; sème une habitude, tu récolteras un caractère ; sème un caractère, tu récolteras une destinée.
Alors, on verra.
多少地味な冒険を継続します。
2007年、フランスから帰ってきて、12/1(土)にフランス語教室を始めた。 あれから5年。
細々と続けて、でも続けられている。 様々な人に支えられながら。
この年月は、「5年も」とも言えるし、「5年しか」とも言える。 その間に試行錯誤して、自分なりのスタイルができたかというと、ぜんぜんそんなことはなくて、まだまだ細胞分裂を繰り返している。どうしたら、もっとわくわくする90分になるか、どうしたら一つ一つの知識を実生活に活かせるか(日本での日常生活に、教室で学んだことを応用できるような授業というのが、はじめた時からの命題なのです。かなりいきっている)。 けれど、少しわかったこともある。私は教えているんじゃなくって、いつでも生徒さんに教わっているということ。
うちの教室の生徒さんたちは、上は70歳近く、下は20歳過ぎ(現役学生たちを含めれば、もっと年齢層は下がる)と様々な年齢だけれど、ほとんどの方が私より年上で、たくさんの人生経験がある。そういう人たちに「先生」と呼んでもらうだけでもどえらいことで、いつもどこかで「こんな若造が、偉そうにしてすんません」と手を合わせている。
確かに、わたしは、生徒さんたちが知らなかったり、そこまでマニアックに追求するほど熱意の湧かないような事柄に少し多めに首を突っ込んでいる。でも、それだけ。多少冒険しているだけ。 でも、それがわたしにできることなのだとしたら、その冒険を地味に続けていこうと思います。
この間、通訳プラス翻訳の二乗で目が回っていたとき、夫君のおかあさんがこういった。
「まりさん、何事も種まきよ、種まき。今やっと芽が出てきたんだから、がんばりなさい。」
相変わらず、おかあさんの一言にははっとさせられる。
ところで、昨日テレビを見ていたら、どじょうさんがこう言っていた。
「私たちは、ばらまきではなく、たねまきをして行きます。」
言葉は、その発信元によってこんなにもその内容(シニフィエ)の価値が変形するのねぇと感心した。もはや誰も、これを聞いて「なかなかうまいこと言うね」と膝をたたいたりしない。 言う人が言えば、ただの下ネタにもなるよな、これ。
そういうわけで(ザ・日本語的まとめ) みなさま、ありがとうございます。
追記:毎回読んで下さっている方々も、ありがとうございます。
国と人と
同じクラスだったワシントン大学からの留学生が「まりはいつも色々な色の服を着るから」と、くれたネックレス。
またもや、思い出話になってしまうんですが・・・
2002年から2007年の間にフランスをふらふらしていた。
それまで、海外に出たのは、小さい時に親に連れられて1ヶ月パリに滞在したことがあるだけで、日本を出て本格的に、たったひとりで「暮らす」ということをしたことはなかった。 出国カウントダウンが始まると、毎日「鬼平犯科帳」を読み(いまでも愛読)、フランスで豆腐を手に入れるルートを探したりしていた。自分がこんなに日本文化を愛していたのか、と驚き、こんなんでフランスに行ってどうするんじゃ、と、完全にヴォワイヤージュ・ブルー(?)だった。
母国から切り離されている、という不安は、海外に住んでみたことがある人にしかわからない。
旅行であれば、とりあえず帰る日にちが決まっているのだから、「やっぱなんとなく落ち着かない」ぐらいの気持ちで済む。けれど、いつ帰るのか、というより、帰るのかどうかさえもわからない場合、慢性的な不安と孤独というのはどうしても存在の底に抱えなければならない。
言葉が通じない不安とか、家族と離れている不安とは違う。 物理的に、生まれ育った土地と切り離されている、という不安。
土地が繋がっているところから来た場合は、やや軽減されるかもしれない。でも、海を越えて来た人にとって、「地面が変わる」というのは、思った以上に大きくのしかかる。 見かけが違うということが、こんなにも人を不安にさせるのか、と初めてモンペリエの街に降り立った時に思い知った。
それまでの私は、人と同じ、というのがまるで自分の存在を丸ごとかき消されるような気がして恐ろしく、同年代の女の子たちが、同じような格好で同じような髪型で同じようなブランドのバッグを持ち同じような曲を聴き同じような雑誌を読んでいるのが理解できず、だからといって特別オリジナリティがあるわけでもないから、その狭間でもがもがともがいていた。
その自分が、同じような人がいないといって不安がっているのに、面食らってしまった。 留学生活での人間関係は本当に繊細だ。同国人がいれば、その人と。そうでなければ、見かけの似ているアジア人同士がなんとなくグループを作る(留学先の言葉の習得レベルが低ければ、その傾向は顕著になる)。一匹狼もいるけれど、完全に孤立を守り続けるなら、そのうち心身に故障を来す。
そうは言っても、せっかく遠くまで来ているというのに、見かけが変わり映えのない、たどたどしい会話のメンツに囲まれて、安心はするけれど「これでいいのか」という気にもなってくる。ネイティブと話したり、自国にいたら出会うことのない国の子たち(アジア人同士だって、本当はそうなんだけれど)と交流しないのは「逃げている」という気にもなる。同族嫌悪も出て来る。そういう中で、ひりひりしながら暮らす。それでも、彼ら、彼女らが褐色の目と黄色の肌を持っていることに、どれだけほっとしたことか。どれだけその存在に感謝したことか。
語学学校の最初の年、私は自分の習得レベルが低いのに、はったりが上手かったので、自分の本当のレベルよりも大分上のクラスに入れられてしまった。それで、仕様がないから、オプションで選択した演劇のクラスの子たちと仲良くなって、彼ら彼女らから吸収することにした(みんな本当にいい「先生」だった)。名前も覚え易かったのか、やたら顔が広くなった。でも、やっぱり怖いから、演劇で一緒だった韓国人、中国人の子と仲良くしていた。
ある日の授業で、歴史の話題になった時に、クラスでほとんど交流をしない韓国人の女の子(いつも一緒にいる子とは別の子)が、激した様子で私ともう一人の日本人にこう言った。 「私の祖母は、従軍慰安婦にされて日本人から酷い目にあった。だから、私は日本人を絶対に許さない。日本人なんかとは、絶対に仲良くしたくない。」 その時は、先生があわてて話題を変えてうやむやにしてしまったのだけれど、私は衝撃を受けた。テレビや教科書でしか出て来ない話題としか思っていなかった私たちを、彼女は明らかに「当事者」として捉え、露骨に憎しみをぶつけてきたのだから。
後で、友達の韓国人の子が、「あんな風に思っている子は稀だから、気にしないで。」と慰めに来たけれど、釈然としなかった。私は何もやっていないのに。言葉を交わす前から憎まれてしまう、日本人に生まれただけで、私という個人の存在を否定されてしまう、なんてことは、26年生きて来て一度もなかった。 いま、愛国教育を受けて洗脳されているとメディアは盛んに言うけれど、教育による刷り込みだけで、あそこまで憎しみを強くできるだろうか、と思う。まるで、生まれてからずっと磨いて来た鉛玉のように、彼女の憎しみは鈍く強く光っていた。あの問題が、全て本当だったかどうか私たちは真実を知らされていないし、女の子の銅像の前で金切り声をあげている人が、果たして本当に被害者かどうかもわからない。けれど、どのような経緯にせよ本当に酷い目にあった人はいて、その人が恨みや悲しみを込めて辛かった記憶を繰り返し繰り返し聞かせることで、あの彼女のように、憎しみを受け継ぐ人がいるのだ、ということを、私たちは受け止めなくちゃいけないと思う。
おせっかいで優しいフランス人や何かの縁で出会った色々な国の人たちが誘ってくれて、出不精のわたしも、数々のパーティーや、イベントや、お茶や、スポーツや、散歩や、飲み会に参加した。底抜けに楽しくて、バカバカしくて、気持ち良かった。
だけど、どんな時も、ふと、「ああ、この人たちは、本当にいい人たちだけれど、人種が違うんだな。」という現実を実感する瞬間があった。私は別段、国粋主義でもないし、一緒にいた人たちが差別的な言動をしたわけでもないのだけれど、ふいにどうしようもない郷愁にかられることがあった。
もちろん、差別的な発言をなんの躊躇もなくする人もたくさんいた。街を歩いていると、ガラの悪いちんぴらに「ニーハオ」と声をかけられたりする。自分の目を引っ張ってつり目にしたりする。そこまであからさまでないにしても、自分の言動が誰かを傷つけていると気づいていない人は多い。
ナント大学で勉強していた頃、生活費を稼ぐのにいくつかアルバイトをしていた。たまたま下宿先が18世紀に立てられた歴史的建造物のアパルトマンで、そこそこのお金持ちや弁護士の事務所が入っている建物だった。その一階に住む老夫婦の家の掃除に通っていた。
そこのおじいちゃんは、昔海軍にいた人で、背が高くかくしゃくとしていて、頭も良い人だった。色々な格言を教えて貰った。息子さんたちはよその県にいたので、私を半ば孫のようにかわいがってくれていた。 そんな人でさえも、わたしに「まりは色が白いね。中国人なんかとは違ってきれいだね。」と言ったりした。 「中国人なんか」という一言に傷ついた。褒めてくれるならその比較は要らないのに、と悲しくなった。言っている本人は、褒めているつもりだから差別発言だなんてこれっぽっちも思っていない。日本を直接差別してないのだから、別にいいだろうと思っていたりする。あれだけ知性のある人でさえも。
私が出会って来た中国人たち、韓国人たちの顔が浮かんで来る。鼻持ちならないことを言う人もたまにはいたけれど、みんな目的を達成しようと一生懸命生きていた。少なくとも「敵」ではなかったし、これからも「敵」になってはならない。
今日の朝日新聞で、村上春樹が領土問題に付いて寄稿している。その中で、領土を巡って熱狂するのは「安酒の酔いに似て」いて、そういう安酒をほいほい振る舞う論客に、私たちは注意しなければならない、と書いていた。はっとしたのは、領土を問題にしたプロパガンダはヒトラーのやり口である、という所だった。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。(中略) 一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。
(リンクは朝日新聞デジタルの会員登録で読めます。多くの人に読んで欲しい。無料会員だとアーカイブが読めなくなるので、図書館にでも紙面を見に行って下さい。) 今、自国を離れてどこかの国に暮らしている日本・中国・韓国人たちは、毎日本当に神経をすり減らしていると思う。自分たちには全く落ち度がないのに、一部の政治家たちの自己顕示のための煽動に、神経をすり減らさなければならないなんて、つらいだろう。
村上さんの言うように、「報復だけは絶対にしてはいけない」です。
Communication française (fin)
パリで最古。 今回の旅は、「おのぼりさんポイント」を外から眺めることにしていたので、モンマルトルにも行くことに。 しかし、私は、あの辺は正直、苦手だ。
サクレ・クールに初めて登ったのは9歳の時。当時(1980年代、と、ここで私の年齢を概算しないように。)、日本語が堪能な神父さんがいて、その頃日本人の小学生があの辺をぶらぶらしているのは結構珍しかったからか、熱烈歓迎を受け、一緒に写真を撮った気がする。もちろん今みたいなケーブルカーはなかったので、みんながあの急所をえっちらおっちら登った。今も昔も変わらず人がうじゃうじゃいる。
大人になって、一人で初めて来た時に、まずピガールの駅でスリに合いそうになった。今は綺麗になったけれど、その時は改札が二つだけの小さな暗い駅で、私が改札に来た時に、後ろ手をしてメトロ・マップを眺めている少年がいた。私は普通に改札を通って通路を歩き、角を曲がった所で、向かいから来たおにいさんにいきなり
「Hé oh, t'as fais quoi, toi ! (おいこら、お前何した!)」
と、怒鳴られた。振り向くと、さっきの少年、と、思ったら極端に背の低いおっさんだった、が、私のリュックのかぶせ部分のベルトを外していた所だった。おにいさんは、小さなおっさんにつかみかかり、「取ったものをすぐに出せ」と迫ったのだけれど、リュックの中には朝ご飯に貰ったリンゴ1個とガイドブックが入っていただけだったし、スリに合う程うかつなガイジンではないんだとわかって貰いたくて、私は、「何にも入っていない、取られていない」と必死に説明し、ちっさん(小さいおっさんの略)も、自分は(まだ)何も取っていない、勘弁してくれと繰り返し、盗られ(かかっ)た人と盗ろうとした人が二人で「ないない」を連呼するというシュールな状態になった。
このまぬけな二人組にあきれた感を漂わせつつ、正義感に溢れたおにいさんは、私とちっさんを放免(?)したのだが、この時「人は見かけによらぬもの」ということわざは、むしろ「人は『見かけ』によらないことはマジで少ない」とアップデートされたのだった。見かけ、というより、その人の纏っている、というか、魂が吐き出している、空気をよく感じないといけない。
・・・という思い出の他にも、行く度に(ガイドとして行かなくてはならないことが何度かあった)、しつこい絵描きを追い払ったり、しつこいミサンガ売りの黒人から逃げたりしなくてはならなくて、そういう困難を乗り越え、心臓破りの階段を登りきった上に見える白いドームも、人を掻き分け入ってみれば「撮影禁止」を知らずにカメラを出して怒られる旅行者達がぞろぞろいてちっとも落ち着かない。
今回も覚悟しつつ、立ち並ぶセックスショップ(この辺は本当に多い)を抜けて、サクレ・クールの登り口にたどり着いた。もちろん、ケーブルカー(有料)は乗らずに、細い階段を上る。
急な階段は、真ん中の手すりを挟んで両側に一人ずつが立てるほどの幅しかない。見上げると、途中の踊り場で中学生くらいの女の子達が5,6人、手にボードのようなものを持って立っている。 「まさか、もう似顔絵描きがいるの?」と夫君が尋ねる。まさか、まさか、と繰り返しながらも、彼女達が私の行く手にたむろしていたので、手すりをくぐって反対側に進路変更した。すると、彼女達は私の進路に再び集まる。
イヤな予感。
彼女達まであと5段程になったところで、全員が一斉にわたしたちにロック・オンした。投げキッスをしたりお辞儀したりして何かをお願いしようとくねくねする。他の所でもいたのだけれど、どうやらヒスパニック系の女の子で、何かの署名を募っている。集団スリだ。ちくしょう。
わたしは「Non」を連呼して突破しようとしたのだけれど、彼女達は通せんぼし、一人がわたしの腕を押さえて進まないようにする。さすがにこれは本気を出さなくてはならなくなり、
「Hé, touche pas ! (触んなコラ!)」
と叫んだ。
そのまま、肉弾戦になるかというにらみ合いがあり、私は、昔のフランス語の教科書にあるような、人差し指を相手の心臓に向けて指す、心持ち古くさい「けんかを売るポーズ」で牽制していた(すりこみって怖い)。 ちょろいと思っていたハポンのねえちゃんが意外におっかなかった、というショックに包囲網がゆるゆるとなったのを見計らって、スリ集団を通過する。
なめんじゃねえぞ(財布は落としたけれど)。
この間、夫君は何をしていたのかよくわからないが、彼もひょいひょいと抜けて来た。
後で、ああいう時こそ「Bas les pattes (触るな)」を使えば良かったなぁ、と反省した。なかなか使う機会のないフレーズ。惜しいことをした。
(※Bas les pattes は動物に対して「足を下げろ(おすわり)」と言う時に使うので、かなり侮蔑的。喧嘩をして勝てそうにない相手には使わないことです。この女の子達も、刃物を持っていないとは限らないので、言わない方がいい。)
こういう輩がいるから、みんなお金を出してケーブルカーに乗るのだと、やっとわかった。穏便に済ませたかったらお金で解決なんて、ヤな感じ。 帰りはサクレ・クールの脇の階段から降りて行ったら、静かで良かった。途中、小学生が5人位わーと登って来て、最後に太った小学生の男の子がひいはあ言いながら、「し、しぬ・・・」と立ち止まり、すれ違いに降りていた女性に、「ほんとね」とくすくす笑われたので、少し赤くなり、「ねぇ、休憩しようよー!」とよろよろ通り過ぎて行った。
さて、モンマルトルにはパリで一番古い「STUDIO 28」という小さな映画館がある。内装のデザインをジャン・コクトーが手がけたので、シックで個性的。 コクトーの絵。
ちょうど、「アーティスト」をやっていたので、観て行くことにした。 まあまあ面白かったのだけれど、アカデミー賞か、と言われると、よくわからない(犬は表彰ものだった)。 モノクロで無声なので自然と身体の動きに目が行くため、女性がガッツポーズをしたりするのが、どうも中途半端に現代っぽくなって、冷めてしまった。
こうして振り返ってみると、ちょっと寒々しい「ふれあい」が多かった気がするのだけれど、エッフェル塔を眺めに行った時、撮影ポイントを通ったら、やはりヒスパニック系の、髪のふさふさしたおとうさんが、iPhoneを持て余した様子で、
「ちょっとごめんなさい、これ、カメラってどうやんのかわかる?いやもう、娘のだから、おじさん全然どうしていいかわかんなくって」
と、尋ねて来た。使い方を教えると、
「やー、たすかったー、ありがとね!もうなんだかよくわからない画面が出て来て、どうしようかと思っちゃった」と、ニコニコ嬉しそうに写真を撮っていた。私達もなんだかニコニコとそれを見ていた。こういうお父さんの娘さんは、きっといい娘に違いない。
あっちもこっちもオフシーズンで工事中、閉鎖中の3月。芝生まで「しば、おやすみちゅう」と看板を掲げていた。
Communication française (つづき)
Trouville - Savignac.
パリに着いた翌日の夜、WILCOのコンサートに行くので、チケットを取りに、最寄りのFnacに行く。これは、例によってLesInrocksのライブ情報で発見して、Le Grand REXのサイトで予約したもの。 チケット発券や予約は2階の奥まった部屋にあって、眼鏡の可愛いお姉さんが担当してくれる。 ちょうどお昼時で、隣のドアから出て来た他の職員に 「Bon appétit !(ボナペティ、直訳すると「よい食欲を」食事前の挨拶)」 と声をかけていた。テーブルについていなくても、こうやって使うのだった・・・と、今更納得する。
Le Grand REXは、老舗の映画館兼ライブハウス。内装も、ひなびた感じのアトラクションみたいで面白い。 2階席は自由席だったので、開場ジャストに行ったら、まだガラガラだった。2階の一番前の席を陣取る。入り口で、「カメラは持ってない?大丈夫?」と、バッグの中身を申し訳程度に覗いた警備係は、水のペットボトルを取り出し、「このキャップはもらいます」と回収してしまった。何対策なんだろう・・・テロ?
時間が近づくと、みるみる席が埋まって行く。見回す限り、アジア人は我々二人だけ。一階は満席。 ライヴが始まって盛り上がって来た頃、一階の中央正面にカップルがつかつかとやって来て、通路のど真ん中に二人で立っている。男性が、女性の肩を抱き、「お前の為に、WILCOを呼んでやったんだぜ」と言わんばかりに、二人の世界に酔っている。しばらくすると、警備員がうんざりした感じで二人を追いやり、横のドアから追い出した。 WILCOのステージはとても素敵だったのだけれど、私達は暗くなるや否や瞼が重力に負け、朦朧としながら必死に聴く。同じような曲が多いバンドの上(実際、ヴォーカルのトゥイーディーがMCで「結構飽きるだろ?」と自虐的な笑いを取っていた)、時差ぼけが発揮されたらしくて、油断すると、首がもげる位の勢いで落ちてしまうので、慌ててリズムに乗っている振りをする。
気合い十分で来ながらも、最前列でがくがくと赤べこのような謎の動きをするアジア人二人組・・・滞在3日目位だったらもっとちゃんと楽しめたのかもしれない。
リベラシォン(新聞)の一面がボブ・ディランだったので買ったら、シテ・ドゥ・ラ・ミュズィック(音楽博物館)でボブ・ディラン展が始まるというニュースだったので、翌日、行くことに。パリでは、大抵メトロの壁のポスターか、新聞(リベのことが多い)で何かを見つけるから、あまりがっちり予定を組んで行かない。
ボブ・ディラン展ももちろん良かったのだけれど、音楽博物館がめっぽう面白かった。
歴史順に沢山の楽器が展示してあって、実際にそれぞれの音を聞きながらたどって現代までツアーすることができる。見たことのない形、バカでかい大きさ、バカバカしい装飾、まがまがしい装飾...の楽器が勢揃いしていて、最上階の近代コーナーでは、テルミンやら、宇宙怪獣を作る研究所にありそうなコンソール型のシンセサイザーやらが、ぞろぞろと並んでいた(このコーナーで夫君のテンションはうなぎ上りになった)。 うちにある、ヤマハのDX7が展示してあって、ちょっと見直した(掃除のとき、少々邪険にしていたのですが、大ヒットモデルなのです)。
ゴール地点には、何かしらの生演奏を聞くことができて、私達が行った日はドラムだった。多分、音楽院の生徒か若い先生と思われるお兄さんが、ラフな感じで説明しながら、スティックをブラシに変えたり、マレットにしたりして音色を変え、演奏してくれた。
次の日は、パリを出て、TGVで2時間程のトゥルーヴィルTrouvilleという街に行く。ここは、私の好きなポスター画家、レイモン・サヴィニャックが亡くなるまで過ごした、海辺の小さな街。すぐ隣のドーヴィルはカジノで有名で、トゥルーヴィルも避暑地として、夏には観光客で溢れかえる。トゥルーヴィルの観光局の隣に小さなギャラリーがあって、ここに展示してあるサヴィニャックの作品を観るのが目的だったのだけれど・・・
「今日は休館です」
そ、そんな・・・。今はオフシーズンのため、人も少なく、別の美術館も4月まで休館とはわかっていたし、観光局のHPを見ても休館情報が出ていない(そもそも、その常設ギャラリーの情報も出ていなかった)のに。 仕方なく、びゅうびゅうと海風の吹く中を、町中に散らばっているサヴィニャックのポスターや壁画を探して歩く。
あまりの寒さに、お昼になるとすぐ、有名なシーフードのお店に入って、久しぶりのムール・フリットを食べる。 隣にフランス人のファミリーが来て、私達の山盛りのムール貝を見たおばあちゃんが、 「あら、ムールおいしそうね」 とお嫁さんに言うが、眼鏡のお父さん(息子さん)が 「あれは、シーズン外だから小さくてだめ」 と却下する。いいんだい、日本にいるとこんなに沢山のムールなんて食べられないから、食べてるんだい、何にも知らない観光客めと思ってくれて結構、と心の中で言い訳をする。
ここのお店は店内にサヴィニャックの様々なポスターが飾ってあるのだけれど、これが一番笑えた。
ちなみに、このお店のポスターもサヴィニャックが描いたもので、食後のコーヒーに付いて来るチョコの包装用紙になっていて可愛かった。
向こうの席では、おじいちゃんとおばあちゃんの夫婦がテーブルに付き、おじいちゃんがウェーターを呼び、「あー、ワイン、赤の、なんだっけな」と、大声で注文をする。おじいちゃんは、その後、サルコジの悪口を始めて、おばあちゃんにたしなめられる。私達が店を出ると、外のテラス席で、タバコを吸いながらコーヒーを飲んでいた。しゃれている。この辺の裕福な夫婦なんだろう。
ギャラリーが観られないので、隣町のドーヴィルもいってみっかと、橋を渡って歩き出したが、帰りの電車を早められるかもしれないと、一度駅に戻ることに。窓口でまもなく出るパリ行きの電車を教えて貰ったところで、雨がまってましたと、ざんざか降り出した。2本ほど早い電車に乗って、パリに戻る。
時間が早かったので、予定を変更してポンピドゥーセンターで今日から始まったマティス展を見に行くことに。マティス展は、あまりたいしたことがなくて(3年位前に県立美術館でやった「マティスとルオー展」の方がよっぽどおもしろかった)、ついでに隣のダンスに関するエキスポジションも観る。一階の本屋さんがとても面白いので、じっくり眺めた後、一冊絵本を買おうとしてポケットの小銭入れがないことに気づいた。
私は、フランスにいる時には用心して札と小銭とカードは別々にして持っていて、小銭はポケットに入れているし、トゥルーヴィルでちょこちょこ使ったので5ユーロも入っていなかったのだけれど・・・スリにはあっていないので(さすがにコートのポケットに手を突っ込まれたらわかる)、レストランで上着を脱いで隣のシートに置いた時に落ちたのじゃないかと思う。今回の旅で、何かしらやってしまうと思っていたので、自分でそういう結果を作ってしまった。思い出のガマ口をなくして、茫然とする。(つづく)
Communication française (フランス語コミュニケーション)
パリへ。「やっとこさ」という感じで新婚旅行に繰り出す。
と言っても、出発前の一週間は、新しい生徒さんが立て続けに体験に来られたりしてバタバタしており、夫君は会社で泣く子も黙る「新婚旅行」カードを切った為に、その埋め合わせで連日遅くまで仕事。なんとか行き帰りの航空券とホテルは取ったものの、その後の予定は機上で建てることに。こんなテンションでいいのだろうか。
フランス語ができて、パリも何度か行っているから心配ないねと、周りは口を揃えるのだけれど、私はスリに合うのではないかと、今までにない胸騒ぎのようなものがあった。大抵、初心者より慣れているひとの方がなんらかの痛い目に合うものだ。
CDG空港に着いて、RER(郊外線)に乗る切符を買うのに自動販売機を使っていたら、早速「北駅まで行きたいんだけど、買い方教えてくんない?」と声をかけられる。背が高く、丸い頭に残る白髪もいよいよ寂しい、といった感じの眼鏡をかけたおじさんで、どうやらフランス人のよう。肩の大きなショルダーバッグが重くてピサの斜塔のように身体が斜めになっている。
毎度思うのだけれど、これだけうじゃうじゃ人がいるのに、なぜフランス人はやたらと私に道を聞いたり、時間を聞いたりするのだろう。
ところで、これはなにも私が特別教えたがりオーラを出しているからではなくて、フランスにいる外国人は結構な率でフランス人からものを尋ねられるらしい。語学学校にいた時に、イギリス人のクラスメイトがディスカッションの話題にした時には、東西問わず、様々な人種の学生達がみんな我も我もと体験談を披露した。平均的日本人感覚からすれば、どう考えても見かけ「ガイジン」な人に道案内を請おうという気にはならないのだけれど、フランス人はその辺(だけに関わらず、全てにおいて)かなり無頓着なのだ。
おじさんに自販機の画面を操作して買い方を教えたのだけれど、ますますパニック(フランス人のおっさんは機械に滅法弱いひとが多い)した彼は、「お金を渡すから代わりに買ってくれ」と言い出した。むとんちゃく・・・
画面の行き先には「パリ(市内)」という欄しかなくて(RERだとパリ市内はどこで降りても均一なので)「これですよ」と言っても「いや、僕は北駅までの切符が欲しいんだよ」とごねる。いやいや、これしかないんだよ、いや北駅が、と、押し問答の上、あまりにもわからずやなことを言うので、さすがの私もとうとう
「Ecoutez monsieur, vous allez au guichet, là ! (あのね、おじさん、窓口に行ってくださいよ、向こう!)」
と、切れてしまいまいました。三条暮らしで培ったにわかふやふや性格も、パリに降り立ち僅か10分で簡単にメッキが剥がれ、アグレッシブな本性を見事に露呈。フランス語にスイッチが入ると、3割増きつくなる気がする。言語学及び形而上学上、避けられないことなのかもしれない(無頓着な解釈)。後で夫君がにやにやしているのがわかる。
おじさんは、「あ、窓口あったの、あ、そ。なーんだ。ありがとね。」と、まるでへこたれた様子もなく、そそくさと窓口へ向かった。 フランス人はなぜ、わざわざ外国人にものを尋ねて、それなのにその言うことを信用しないのだろう。
パリに着いたのは22:00過ぎ。ホテルはソルボンヌのすぐ裏手にあって、サン・ミッシェルとかオデオンの駅にわりと近くて動き易く、スーツケースを持って移動をする初日と最終日がとても楽だった(サン・ミッシェルからダイレクトでCDGまで行ける)。 今はコンビニみたいなモノップがあったりするので、結構遅くまで人が歩いている。フランスに来たのは4年ぶりになるのだけれど、あまり懐かしさが湧かない。つい、昨日までここにいたような、しごく当たり前のような気がして、不思議な気分になる。パリに住んでたら、また違ったのかもしれない。ナントに行きたくなった。
翌朝、事前に決めていたように、おいしいと教えて貰ったパン屋さんを探しに行く。道案内は、職業柄、地図に強い夫君に放任。子どもの頃、父がパリに単身で住んでいたことがあって、私と母は夏休みに一ヶ月ほど彼の所に滞在した。朝、父と一緒によく近所にバゲットを買いに出かけた。その頃はまだパン屋さんのバゲットも1本が100円しない位の安さだった。帰り道、焼きたての香りに抗えずに少しずつちぎって食べ、結局家に着くと半分なくなっていることがほとんどだった。
フランスのパン屋さんでは、日本のようにトングで好きなものを持って行ってお金を払うなんてことを許してくれず、パンは、ひかえおろう、と言わんばかりにガラスケースの内側や、カウンターの後に整列している。客たちはカウンターに並んで順番を待ち、きびきび動く店員さんに「あれを1個、これを1個」と、注文する。つまり、必ず店員さんと話さないと買えないようになっている。しかも、食事時は店の外まで列ができているので、悩んでいる暇を与えてもらえない(驚く程みんなイラチである)。ちょっと躊躇すると、「あれはどう?これは?」とお勧めしてくれるのは良い方で、だいたいは飛ばされて後のお客さんに注文を聞き始める。あのスピード感は経験者でも戸惑う位だから、初心者は苦労するわな、と改めて思った。 エリック・カイザールのおばさんは非常におっかなかったけれど、ショソン・オ・ポム(リンゴのパイ)は本当においしかった。
よく、外国人が「日本に来て一番びっくりしたことは?」と聞かれて「歩行者が横断歩道で赤信号だときちんと止まること」と答える。フランスでも、歩行者が赤信号で律儀に止まっていると「頭かお腹の具合でも悪いのか?」と思われてしまう位で、パリジャンは横断歩道があったら、信号ではなく、車が来る方を見る。車が近くまで来ている時は、運転手の呼吸を計る。この人は止まってくれるひとか、意地悪にスピードをあげるひとか、という見極めも大切。「通してね!渡るからね!轢かないでよね!轢くと色々面倒だからね、外国人だし!」という気のようなオーラのようなものを出して、車を止める。 ひとつひとつ、そういう摩擦がある国だった、と、初めて気が付いた。横断歩道ひとつ渡るにも、パンを1個買うにも、人と「コミュニケーション」しなければならない国。日本にいると、知らず知らず、どんどん人との接触を避けるようになっている、無菌室に追いやられているみたいに。コンビニの棚から好きなものを取って、黙ってお金を出せば、ものが買えるのだ。レジで、本気で「こんにちは」なんて挨拶しようものなら、あっという間に「変わった人」(もしくはナンパ目的)、下手をすると「要警戒人物」になってしまう。
旅行の前にラジオで聞いた「海外ニート」の話を思いだした。わざわざ海外に行って引きこもりになる日本人たち。そんなつもりなくても、無菌室からいきなりここにくれば、パリ症候群になるよな、そりゃ。人と関わるというのは、タフでなければできないのだもの。
しかし、パリの人は、あまりにも外国人だらけで嫌気がさしている人が多く、レジ係なんかはもう投げやりで口先だけの上辺コミュニケーションしか取らない人が多くなった。これじゃ、日本とそう変わらない。居心地が悪い。
私がフランス語を教えるとき、経験上、「さようなら」は「Au revoir」より「Bonne journée(よい一日を)」と言ってきたのだけれど、今のパリのお店ではそれが通用しなくて、「Merci, au revoir」ばかり使っていたのに気づいた。それだけ、やりとりが忙しなくて
「よい一日をね!(Bonne journée !) 」 「ありがとう、あなたもね!(Merci, à vous aussi !)」
という数秒の言葉さえもカットされてしまう。その僅かなあそびというか間のようなものの中にある人間らしさのようなものの首をばっさりギロチンで切り落として、コミュニケーションは空虚な音の羅列だけで意味のない、記号のおばけみたいになってしまった。奇形の生物を見ているみたい。やっぱり、居心地が悪い。 新学期、別れ際の挨拶は「Au revoir」ですよ、と教えるべきか(まあ、教えるけど)・・・。「よい一日を」と言える人になって欲しいしなぁ。Au revoirって、だいたいから発音が難しいんだ、初心者には。 (つづく)
Transition
死に立ち会う。
不思議と近い感覚を抱きながら、どうしようもなく遠い存在。本来なら、わたしには何も語る資格のないであろうひとつの死。けれど、こうして儀式に参加することになる。
初めてお見舞いに行った帰り、少し後悔していた。もっと、ちゃんとご挨拶すればよかった、たとえ「聞こえない」かもしれないとしても。たとえ、ぎょっとされたとしても。パフォーマンスだとか、変わり者だとか思われて、色々と迷惑がかかるかもしれないとしても。そんなこと、たいしたことじゃないじゃないか。
あの時、おじいちゃんは指を動かして、酸素計測器をはずしてしまった。私はそれに気づいて、おばあちゃんに言った。そうじゃなかった。おじいちゃんは、きっと「よく来たね」とわたしと話をしようとしてくれたのだ。わたしはその指をにぎって、 「こんにちは、はじめまして」 と言えばよかったと、帰り道にずっと考え続けていた。
お盆にはもう一度行って、今度はちゃんと「もう知っているかもしれませんが、まりといいます。よろしくお願いします。」と言おう、と。 そういう後悔は大体「アトノマツリ」になる。 そのひとが、もうそこにいない、という事実は亡骸を見れば一目瞭然なのに、いよいよという瞬間までぼんやりとしていて、魂に包まれていた身体が無くなってしまうという現実につきつけられて胸が苦しくなる。好きな人が悲しんでいるのはつらい。どんどん透明になっていってしまうようで。大切な人たちが悲しんでいるのはつらい。この場面にいままで幾度か立ち会っているけれど、その都度そう思う。自分が悲しいよりつらい。 おじいちゃんとは、ほんの少しだけすれ違っただけだけれど、これからも続いて行くひとつの歴史の中にわたしも組み込まれて行くんだ。家族に支えられている。しっかり守って受け渡していかなくちゃな。
FIN DE SEMESTRE (学期末)
"L'école est (presque) finie" pour mes étudiants, et maintenant c'est boulot boulot pour la prof...
試験は先生も怖いんだ。生徒が書いたり消したりした苦労の跡の答案を見るのには勇気がいる。 もし、全然解けていなかったら・・・ もし、易し過ぎてつまらなかったら・・・ もし、説明が理解してもらえていなかったら・・・ 生徒の答えに赤を入れるのに快感を感じるサディスティックな先生もいるかもしれないが、わたしの場合は赤い線(エラー部分には下線を入れるようにしている)を入れる度に自分にも同じだけ×が入るような気がしてしまう。 ので、今は全身朱色の耳無し法一みたいになっとるところです。
フランス語って、やっぱり難しい。嫌みでなく、そう思います。 かつて絶望を感じた難しさや面倒さというのが過去の思い出になってくると、つい「あー、あのややこしさねぇ。まぁ、精一杯がんばりなよ」みたいな、経験者の上から目線でにやにやしてしまいそうになる。そういう態度は語学嫌いを増やすだけだし、今現在の苦しみをわかって、なんとかしてくれない先生じゃ、相談する気も失せる。だから、なるべくその苦しみを共有するようにはしているのですが...
白状すると、 フランス語をある程度のレベルまで続けて来ると、文法上の難問には、もはや苦しみでなく美しさを見出すようになってくるわけで・・・まぁ、フランス語を長く続けているやつなんて変態に近いものがあるからな。世の中には、アブナイ人がたくさんいるのですよ。
今朝からなぜだか懐かしいBen Folds Fiveの「Where‘s Summer B. ?」が頭の中でぐるぐる回っている。解消するにはピアノのふたを開けるしかないか。 EXTENSION58は本日ツアー最終日で大阪に乗り込んでいます。6時間かけて行き、6時間かけて戻って来る・・・よくやりますよ、「新潟の笹団子野郎」たちは。ツィッターで色々報告してくれるので、見ていると面白い。
http://twitter.com/#!/EXTENSION58 前回の動画がかなり映像が遅れるiPod touchの謎現象ムービーだったので、ズレないやつを。
誰か、iPod touchで撮る動画の映像が音声より遅れるバグの解決法を教えて下さい。リセットしたらいいのかな。
Purification 浄化
わたしがEXTENSION58というバンドを知ってから、8月でまだたった2年なのだけれど、その間に2回同じ光景に遭遇した。
一度目は、わたしにとって2回目のライヴで、丁度15周年記念のワンマンだった。 連れて来てくれた友人が、当時、家庭の事情で心も頭もそのことでよじれるようになっていた。第三者が端で聞いていてもやるせない気持ちになってしまう位だから、当事者の家族である彼女の具合が悪くなってもおかしくない。 ライヴの途中から少しずつ吹っ切れて来て、終わった時には顔色が良くなっていた。悩んでも仕方ないから、もうやめたと言って笑った。
二度目は一昨日、SUNSHINE LOVE TOUR 2011 新潟2daysの二日目、海の家nefでのイベント「ベルウッド・ストック2011」で。 思い立ってモブログからリハーサル中の写真をUPしたら、それを見て、ふらりとやって来てくれた方がいた。 彼も、仕事で思うように行かないことがあって気分転換に来たと話してくれたのだけれど、終わった後話した時にはやっぱり顔色が良くなっていた。自分と同年代で、同じように
「地方都市新潟を拠点にがんばっているおじさんとして」。
たぶん、4人のおじさんたちは(笑)、(そう思うことも折にふれあるだろうけれど)「元気をわけてあげたい」を主たる目的として活動しているわけではないと思うし、彼ら自身もそれぞれ生活の中で浮き沈みがあると思うから常に元気なわけではない(鈴木さんは1日目に歯茎が腫れていたし・・・)。だけど音楽が好きで、演奏が好きで、みんなと一緒に自分たちがやっていることが好きで、その「好き」には、心に溜ったいらないものを溶かしてしまう力があるんだと思う。
先日「好き」という言葉についてちょっと書いたけれど、彼らの音楽には、「好き」の原始的な力がいつも満ち満ちているんだと改めて感じた。 好きなことを、機嫌良くやっているって自分を振り返ってもあまりないような気がする。 そこまで、自分の仕事なり趣味なりを全力で愛しているかっていうと、好きなはずなのに、全力出せていないよなぁ。
わ、「ひたむき」だ。今年の標語(すっかり記憶から抜け落ちていた)。 よっしゃーやるぞー、わたしも。 久々に聞いたTHE DISAPPOINTMENT (in 3rd アルバム「THE DAYS IN THE WATER」)少々いっこく堂(音が遅れる)。
En preparation
ただいま準備中 EXTENSION58 SUNSHIN LOVE TOUR 2011 at 海辺のギャラリーダイニングnef 柳田久美子 EXTENSION58 theMANKY オーライズ OPEN 18:00 START 18:30 当日 1,800円
愛と副詞の行方
Il était une fois... (昔々)
「ジュテーム (Je t'aime きみが好きだ、きみを愛している)」
と、フランス語で言われたことは残念ながらないのだけれど、実は言ったことはある。 (正確には tu [きみ]で話す相手ではなかったので(!)「ジュテーム」ではなく「ジュヴゼム[je vous aime]」の方だった。)
その返答については置いておいて(笑)。
ここでむかーしむかしに書いたことがあるかもしれないのだけれど、好きである、愛するという動詞aimer(エメ)を愛の告白で使う時には、決 し て副詞を付け加えてはならんのです。
深く考えなければ
「好きです」 「とても好きです」
だったら、
「好きです」< 「とても好きです」
という気がするのだけれど、これを実際フランス語でやると
「Je t'aime(好き)」>「Je t'aime beaucoup(とても好き)」
となる。というより、「Je t'aime beaucoup」は「トモダチとして、きみっていいやつだよな」という意味に成り下がります!あぎゃ。
なぜか。ここに、『副詞の反作用的冷却機能』(←今考えた)が発揮されているのであーる。
副詞のふるまい
ところで、基本的なことを。副詞というのは動詞や形容詞にくっついて、その言葉本来の意味に程度を付け加えたりニュアンスを加えたりする働きのあることばです。上の例だと「とても」がそれに当たります。
私は品詞の中では副詞が一番好き(おわ、怪しさ満点・・・見よ、この「好き」の破壊力!)。
aimer はとても強力な動詞で、直接法(現在形)で使うと激しくストレートな主張をすることになります。「ジェム」って言うと、私にはその場で巻き起こるインパルスに周囲の気がなぎ倒されるのが見える(うそ)。 あまりにもダイレクトに強いので、「とても」「よく」「すっごい」のような副詞をクッションのように使って逆説的にその激しさを緩和させてるんじゃないのか、ということがよくあります。
A) J'aime le chocolat. 「チョコレートが好きです」 B) J'aime beaucoup/bien le chocolat. 「チョコレートがとても好きです」
意味としては、B)の方がより「好き」。イントネーションにもよりますが、一般的には、人以外(物や概念)が対象の時「とても」がある方がより強い印象になります。
けれど、聞き手にとっては A)の方が動詞(aime)と補語(le chocolat)の間に余計な物が挟まっていない分「好き」という響きがガツンと来ることがあります。
だから、対人の時に「とても」だの「すごく」だのを挟んでしまうことで、逆に「愛している」という激しい気持ちの流れに障害物を差し込み、却って緩和させているのではないかしら。言葉が持つ意味合いに反比例して燃え上がる気持ちにざばんと水をかけてしまっているのです。いやん。
ちなみに、これもここで昔書いた気がするのですが、「なんでなんで?!『とても』って言った方がより愛してる感がでるじゃん!」とフランス人の先生に聞いた所、こんな答えを貰った。師、曰く:
「本来、愛とは無限のものである。副詞を付けることは、その無限の広がりに一種の『限度』を与えてしまうことである。程度を表す副詞は『愛する』という行為とは相容れないものなのだ。」
・・・合掌(なんとなく)。
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「好き」は難しい
英語の「love」という概念は、日本語にはもともとなかったので翻訳しにくいという話を聞いたことがあります。確かに、日本語で「好きです」とか「愛しています」というのは形容詞的「状態」で、まさに「草食系」で自己完結、それに対して「love (aimerも)」はもっと能動的で「行為」であり、相手を巻き込んでがるるるる、のような「肉食」的イメージもあるなぁ・・・。
先日ラジオで「 Lisa Lauren Loves the Beatles」というアルバムタイトルを聞いた時、うわ~これにしっくりくるような邦題をつけるとしたら困るだろうなぁと興奮(?)してしまいました(今はこの程度の英語はいちいち邦題を付けないので、実際の日本版も「リサ・ローレン・ラヴズ・ザ・ビートルズ」となっている)。
「リサ・ローレンはビートルズが好き」では消極的すぎて彼女がこのアルバムを出す意義が伝わらないし、 「リサ・ローレンがビートルズを愛する」というのもなんとなく日本語的感覚にはしっくり来ない。「ビートルズを愛するリサ・ローレン」でも「だからどうした」感が・・・。
愛の表現方法は様々で、好きだと言ったり演奏したりするだけでなく、こんな風にカヴァーアルバムを作ることがリサ・ローレンなりの「愛する」行為だという意味が「Lisa Lauren loves the Beatles」というシンプルなワンフレーズからは普通に匂ってくるのに、日本語の直訳ではそこまで感じ取るのは難しい。文法的にちっとも間違いではないのに。
日本語で、文字通り「好きです」と言ったことはないのですが(言ったのに酔っぱらっていて記憶が抹消されたこともあるかもしれない)、言われたことは1回ある。中学生の時だったんだけど、「とても」とか「すごく」などの飾りはなかったから、彼の言葉、気持ちの強さを受け止めきれず、私も彼のことが好きだったのに上手くいかなかった・・・嬉しかったのに。こういう、ビシッと決める時にお飾りがついていると、どこか言い訳めいて聞こえるというか、勇気がないような、本気なの?と疑いたくなる隙間ができるのかもしれないけれど、中坊くらいの恋愛初心者には強烈すぎなくて良かったりするのかもしれません。
女性は、お互いの気持ちを確認してからも度々「ねぇ、私のこと好き?」と聞きたくなり男性にうっとうしがられることが多いというのは結構有名な話ですが、これも「ノルウェーの森」の主人公ばりに「世界中の虎が溶けてバターになっちゃうくらい好きだ」ぐらい毎回言えればいいのでしょうけれど(それも賛否両論ありか)、大概は結局「うん・・・」とかお茶を濁してしまう。「好きだよ」と平気で言える人も中にはいると思うけれど、やっぱり「好き」の直球は恥ずかしい。自分の内面を曝け出す言葉だから、言う方も受け止める方も勇気がいるんだよな~。 (わたしは、この「ねぇ、私のこと好き?」という台詞は恥ずかしくて言ったことがないです。聞きたくなる気持ちはわかるけれど、その前にドリフの志村けんと桜田淳子の新婚コントを思い出して笑えてしまう。←古い)
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「僕のことは忘れなさい。」はdevoirではなくfalloirを使う。なぜ?
さて、冒頭の返事ですが、
「Il faut oublier (忘れなさい)」
でした。
(しれっと文法解説に。)Falloir はこういう場合に使うのに程よい圧力があり、この場合、断る時のすまないなという気持ちに流されずにさりげなくでもあきらめなさいという断固とした主張が聞こえ、devoirの断定・高圧・悲劇的な響きよりも優しさを感じられるのです。主語が非人称の「il」なので、誰も悪者にしないという心遣いが見える・・・。
大人になると、何語であれ、こういう「ザ・告白」ってあんまりやらなくなってしまう気がします。特に「愛している」を使ってしっくり来るのは故忌野清志郎くらいじゃないのかベイベ。お互い、できれば暗黙の了解に持ち込みたい・・・ことばじゃなくても、皮膚を通して伝わるってこともあるしな・・・白黒付けて万が一傷つくと、立ち上がるだけの体力が若いとき程ないし・・・。やれやれ。
Here Comes Sunshine
タイヨウガコイシイ。
やっとこさ手もとに。EXTENSION58の新作ミニアルバムSunshine Love。
ポスター +PASmagazine 6と7月号。パスマガの記事で鈴木さんと斎藤さんの名前があべこべに書かれていましたが・・・後ろ姿でわかるけど。
ポスター(教室に貼る)の写真、意外なる大きさに一人うろたえております。背中向いててくれて良かった(笑)。
あした(今日)からツアーが始まりますね。いってらっさい、梅雨の日本列島に真夏の愛と太陽をじゃんじゃん降り注ぎに!新潟で夢見て待ってますよぅ、やみつき純情ロック!
EXTENSION58 [SUNSHINE LOVE TOUR 2011]
2011/05/29 sun 長野 NEON HALL(026-237-2719)
2011/06/05 sun 東京新宿 red cloth(03-3202-5320)ローソンチケット(Lコード:75273)発売中
2011/06/12 sun 秋田 CLUB SWINDLE(018-865-7150)
2011/07/02 sat 新潟 GOLDEN PIGS RED STAGE(025-201-9981)
2011/07/03 sun 新潟 青山海岸 nef【bellWOODSTOCK Music Festival 2011】(025-267-7009)
2011/07/10 sun 仙台 LIVE HOUSE enn 3rd(022-212-2678)
2011/07/24 sun 大阪十三 FANDANGO(06-6308-1621)
チケットは各会場の他エクステンションのホームページからも予約できます。
Voici ce que je peux faire(できることを)
こんなことしかできませんが、「思う」ことや「祈る」ことをたくさんしようと思う。何語であれ。 フランス語を勉強している人は、どうぞこんな時にどんな風に気持ちを表現すればいいのかを学んで、どうぞ誰かに伝えてください。それは単に外国語を丸暗記するのではなくて、どうしてその言葉を使うのかをやっぱり日本語で理解して覚えて欲しい。(そうでないと覚えられないし忘れてしまう。) ここのところ、ますます強く思うのだけれど、語学を自分の生きている地面から切り離してはだめだ。
フランス語で「お悔やみ」の表現をする時、使われる言葉はいくつかあるけれど、一番よく見かけるのが
sympathie (サンパティ)
「シンパシー」、「共感」。
昨日は公民館の生徒さん達と、「もし自分が被災者の立場だったとしたら、どんな言葉を伝えられたら力になる?」と考えた。 語学をやっていなければ、紋切り型に「オクヤミモウシアゲマス」を唱えるだけだったかもしれないけれど、外国語のお陰でこうやって改めて考えることができる。 辞書を引けば、「同情」という言葉は出てくるけれど、もし私が被災者で「同情いたします」と言われたら、気持ちはわかるけれどきっとなんとなくもやもやしてしまうと思う。
すると、Kさんが 「あなた方と共にいます、という気持ち」 とおっしゃった。まさに、それが「sympathie」という言葉を使う理由なのだと思う。
Je tiens à exprimer ma sincère sympathie aux victimes et à leurs proches et à leur/nous souhaiter de trouver du courage pour surmonter ces épreuves. 被害者の方とその近しい方へ心からのお悔やみを申し上げます。皆様が、そして私たちがこの試練を乗り越える勇気を見つけられるように強く望んでおります。
tenir à + 原型:~することを切望する。何かを強く伝えたい時、何かをせずにはいられない気持ちを表す。 exprimer sa symapathie à qn : お悔やみの気持ちを述べる。exprimerの代わりにadresserでもOK。 surmonter : sur(~の上に)とmonter(上る)が合体した動詞。乗り越える。 épreuves:試練(複数で使う)。普段は試験、テストという意味でも使われる。「試験をする」という動詞はéprouver、綴りが違うので注意。
国連のパン事務総長の言葉は、この立場の人が言うから大きな力になるものだ。
[...] je sais qu’ils [les Japonais] surmonteront cette terrible tragédie. 私は、日本の皆さんがこの大きな苦難を乗り越えるということを確信しています。
未来形というのは、様々なニュアンスを醸し出せる時制。その豊かさには思わずイイコイイコしてしまいたくなる(フランス語おたくごころ)。ここではpouvoirの意味で使っています。 そして、savoirを現在形で敢えて断定的に使うことで、「あなた方ならできる」と、これもpouvoirを使わずして暗に励ますことができる。父性的な力強さがありながら、そっと背中を押すような母性的な表現になっているのです。 がんばろう。それしか言えないけど。
Tenez bon (持ちこたえて)
がんばろう。がんばろう。がんばって生きよう。
何を暢気な、と言われると思われますが、この天災が起こって以来「ことば」について考えている。 あの津波の映像を前にして、言葉を失った。 今、何をどう言おうとすべて「傍観者」としての言葉にしかならない。黙るしかなかった。 とりあえずすぐにYahoo!で募金はしたのだが、今朝のコボちゃん(読売朝刊)に簡単に負ける額だった。多分多くの人と同様、自分には何もできない、という焦燥感ばかりを飲み込んで暮らした。 とにかく、怖かった。新潟も相当揺れた。大事な人と全く連絡が取れなくなった。日常が歪んで、崩れた。 こんなに「ことば」で繋がっているのだ、わたしたちは。なんて危ういんだろう。 大災害を前にして言葉の無力さを感じると同時に、それ自身が持つ力も改めて痛感した。 みんな、「大丈夫だから、何とかするから」と言って欲しい。けれど、明らかにタイミングを外した演説や、まるで意味不明の、記号の羅列でしかない説明(フランス語では「シャラビアcharabia」と言う)は、絶望的に誰の心も救えない。 前々から言われてきた事だけれど、言葉をどう発するか、どんな風に伝えるか、いつ伝えるのかという選択、発信の総合的な力は、私たちの国の教育においてあまりにもないがしろにされている。発信するというのは、責任が重く、勇気がいる。どんなに繕っても、心は丸裸になる。普段から訓練していなければ、咄嗟に誰かを助けることばをかけられるだけの強さを持てるわけがない。 ことばの力というのは、こころの力でもある。やさしさという力でもある。 語るのであれば、そういうあかりを灯せることばを口にしたい。 教えるのであれば、そういうことばを語れるひとになって下さい、と伝えたい。 実は、3月の初めから手術のために入院していました。例の好酸球がらみで。手術は無事成功し、退院した翌日の出来事でした。もし、私が一週間手術日を伸ばしていたら、時間的にも手術の真っ最中にあの地震が起きて、どうなっていたかわかりません。 どうか、どうか、一人でも多くの方が、早く暖を取れますように、早く「もう大丈夫」と口に出来ますように。 Tenez bon !