20代のはじめ頃、パントマイムを教わりに行っていた。
そのころ研究生だった劇団のカリキュラムで週に1回授業があって、ほんのさわりを教わった。先生はおかっぱで、下半身のぴっちりしたダンス用のパンタロンをはいたおじさんで、もうこれ以上ないくらいはげしく怪しかった(実は知る人ぞ知る偉い人だった)のだが、わたしは昔から、蛾が街灯にわらわらと集まってしまうように、怪しいところにふらふらと近寄ってしまうたちで、劇団の同期に誘われ、気がつくと夏休みに先生のレッスン場に通うことになっていた。
明るい板の間のレッスン室に、10人位の生徒がぴっちりしたレオタードやレッスン着で並び、黙って一心不乱に身体の節々をぐにゃぐにゃと動かしたり、一歩も移動せずに歩いている動きをしたり、ひとつのテーマに沿って短いインプロビゼーションのようなことをやってみたりする。
やってみると、いかに自分の身体が思うように動かせないか、いかに自身の身体に鈍感か、ということがよくわかる。少しずつ、思い通りに動かせるようになってくると、表現が面白くて仕方なかった。今、また、やりたいなぁと思ったりするのだけれど、新潟にそんなマニアックなことを教えて下さる人はいるのだろうか・・・。しかし、こうやって思い出して書いてみると、しごく地味だと思っていた自分の経験も、やや特殊のような気がしてきた。少なくとも、一般的とは言えないことをいくつかやっている。
パントマイムの教室に来ていた同年代の子で、とても身体の動かし方が魅力的で視点が独特な女の子がいた。その子は某大学の芸術学部で勉強していたのだけれど、わたしが友達とやった芝居を観に来てくれた後、まじめな顔で決心したように、印象的な感想を言ってくれたことがあった。
「なんかさ、舞台でパンツとか見えちゃうと引くじゃん。見えそうだけど、絶対見えない方がいいんだよ。だからもう、練習の時にすごい真剣に、絶対パンツ見えないように猛特訓するの。『そこ!パンツ見えてる!今の動きもいっかい!』て。」
(ちなみにその芝居は、パンツどころの話ではなく、わたしと相手役の男子共々水着を着て出るシーンがあった。)
かなりどうでもいいことに全力を傾けているちょっとアレな集団にも見える、彼女らのパンツ露出不可に傾けるひたむきな熱心さを一瞬白昼夢に見て、彼女のアドバイスに、ははあ、上には上がいる、と思ったのだった。
ただいまのéquation(方程式)
語学=フランス語+おじさんおばさん+若者÷プレ不惑の彷徨える講師×パンツ遮蔽にかける女子大生の情熱
フランス語のどこがいいのか、と聞かれた時に、その良さを伝えるのはなかなか難しい。 確かに、響きが独特の美しさを持っている言葉だと思うし、表現方法も面倒くさくていい。 (「面倒くさくていい」という褒め言葉が存在するのかはわからないけれど)
ただ、わたしが最も惹かれたのはその美しさや精巧さを通り越して、すっげ馬鹿馬鹿し、ということに全力投球するフランス語文化の懐の広さだったわけです。まぁ、その美しさや精巧さあっての馬鹿馬鹿しさの輝きなんでしょう。
そういうのがいいの!という人だったので、やっぱりフランスに行っても、そういうのに正面衝突することが多く、そういう知識ばっかりがついて帰ってきてしまった。
(例えば、語学学校の演劇クラスでナンセンスな猟奇的ホラーストーリーばかりが入っている「Le Grand-Guignol」とかをやったりしていた。留学生にそんなアブナイ作品を演じさせた先生も先生だ。)
今思い返してみると、あの頃わけもわからず飛び込んでいた、くだらなさへの数々の真剣なアプローチが、今のわたしのルーツになっているのだなとつくづく思う。しかし、あの頃の真剣さは全然足りてなくて、中途半端に格好つけて格好わるかった。ああ、今、一番わたしに足りないのは、あのパンツ隠匿への苛烈な情熱なんだろう。