フランス語を始めたばかりの学生達30人に文法を学ぶことに関するアンケートをとり、その結果をもとに「語学にとっての文法」について考察しています。
単語さえ知っていれば、気持ちでなんとなく伝わるという意見が主流の中、 「単語を並べても、言いたいことは伝わらない」という実体験からの意見が出てきた。
「新しい世界の扉」 文法がなければ語学学習が広がらない。確かに、単語や発音しか知らなくても単純な会話をすることはできる。だが、それではその語学の世界は広がらず、いつまでも受動的な態度でしか学べないと思う。文法とはその語学における規則であるし、消極的な表現をすれば、守らなければならない堅苦しいものである。だが、その規則を習得することで、自由に、かつ積極的に語学を学び、使いこなすことができるのだと思う。
ルール無視のやりたい放題であれば、誰でも好きなように「表現」できるだろう。しかし、それでは他人と分かち合うことは難しい。ルールを逸脱せずにどのような表現ができるのかを探る、そこにこそ、真の表現の楽しさがある。
「毎月新聞」佐藤雅彦 著 (2009 中公文庫) より「たのしい制約」
「骨格」 骨格というのは外からは見えないもので、パッと見ではあってもなくても同じようにも見える。語学においても、実際にその言語を母語とする人と話すとき、単語の羅列や身振り手振りでもある程度の意思疎通は出来る。だが、一定以上の高度な意思伝達を行おうとした時、やはり文法は必要不可欠となる。これは骨折した状態では高度な運動が出来ず、行動は極端に制限されてしまうことにも似ていると思う。よって、文法を学び身につける事は運動で「骨太」にすることにあたると思うので、文法は「骨格」と言い換えることができる。
コミュニケーションとは、「人間が互いに意思・感情・思考を伝達し合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う(大辞林)」行為のことである。そこには、必ず「対話者」が存在する。「コミュニケーション」というと会話のことばかりを指すと勘違いされがちだが、「書く」ことによって伝えそれを「読み」取ることも、もちろんコミュニケーションだ。
今回のみなさんの意見から、文法というものの様々な解釈を見ることができたが、そこに著しく欠けていたのは「受け取る側の視点、気持ち」である。自分が発することに集中するあまりに、みなさんの、単語を串刺しにしたような話を聞かされる「相手」のことが全く考慮に入れられていない。
もし、皆さんが片言の日本語を話す外国人から話しかけられたらどうするだろう?
相手の意図を汲もうとして、一生懸命その人の発する単語をフォローして聞くだろう。
そういう外国人が次々30人も道を聞いてきたら、いくら親切な人でもうんざりするのではないだろうか?(パリのお店に勤めていれば、そういうことだって日常的にありうるだろう。)
そう、ルールを守って話してくれない人と会話をするのは労力がいるのだ。(それは、ルールを守らずに書かれた文章をフォローしながら読み続ける先生の苦労でもあるのです!)「気持ちで伝える」というお題目のもと、平気で相手に苦労を押し付けているのはフェアなコミュニケーションと言えるだろうか?知らない土地で知らない人が相手だったら、そんな傲慢な態度も許されると言えるだろうか?
「6年も勉強しているのにしゃべれない」英語力について、池上彰さんが、あるテレビ番組で次のようなことを言っていた。
「日本人が、例えばパーティーなどで英語で誰かと話すとき、挨拶はできる。でも、その後の話が続かない。これは、英語がしゃべれないんじゃない、話題がない、つまり(その場にふさわしい話題を提供する)教養がないんです。」
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「文法よりコミュニケーション」という世間の言葉に惑わされないでほしい。
基本的に、相手と適切に、気持ちよくやりとりしようとするのが「コミュニケーション」である。理由もなく相手に負担をかけたり不快にさせたりすれば、コミュニケーションは成り立たなくなる。
語学をする上での文法学習は、相手に対して自分の意志をわかりやすく、受け取りやすく差し出すための「気遣い」をまとめたものだと私は考えるようにしている。 その方が、少し大変でもがんばろうという気になる。
(人は誰かの役に立ちたいと思う生き物なのだと、わたしは考えている。)
いかなる対話者に対しても、自分の語学レベルがどんなに低くても、適切な気遣いができるようにその時できるだけのことをするのが、国際人としての一歩ではないだろうか。
語学は、様々な能力をバランスよく伸ばしていくことで上達する。単語ばかり知っていても、文法の知識ばかりがあっても、それを使いこなそうとする勇気と意思がなければいつまでたっても使えるようにはならない。そして、コミュニケーションをとるには言葉の使い方を知っているだけではダメだ。
何を語り、何を聞き取るのか?
どのように語り、どのように聞き取るのか?
語学は、みなさんが、普段どのように生きているのかを如実に反映してくる鏡のようなものなのだということを、覚えておいて欲しい。