「文法は誰のためにあるのか?」から「どう生きるか?」へ。初級学生達30人に文法を学ぶことに関するアンケートをとった「語学にとっての文法」についての考察。小論文も結論に向かいます。
Read More文法を学ぶということ(中編)
会話ならめんどくさい文法など使わずに、ジェスチャーや気持ちでなんとか通じさせればいい。そもそも、文法なんて実際には使っていないのでは?という疑問から「対人」という発想へ。初級学生達30人に文法を学ぶことに関するアンケートをとった「語学にとっての文法」についての考察。
Read More文法を学ぶということ(前編)
フランス語を始めたばかりの学生達30人に文法を学ぶことについてのアンケートをとりました。彼らが文法学習を、そして語学をどんな風に捉えているのか、私たちの考えがどれだけマスコミやオトナ達の意見に「洗脳」されているのかが顕著になっています。
Read MoreY a loin d'la coupe aux lèvres
photo credit : Anthony Georgeff
ここを作るのにだいぶ時間が経ってしまった。数日ずっとよくわからないWordpressをいじっていたので、器官(弱い)に疲れが直撃。
週1でフランス語を教えている専門学校の教務室では、色々な先生たちと一緒になる。みなさん大先輩なのだが、様々な逸話を聞くのを、常日頃密かに楽しみにしていた。学期末の先日、恒例の2コマ連続授業があった時、ある先生に聞いた話:
先生(おそらく六十代)がその昔大学生だった頃、第2外国語でドイツ語を選択した。
担当した講師はドイツ人男性で、おっかない先生だったという。
「文法なんて考える必要はない。俺の言うことをそのまま丸暗記しろ。」
という軍隊タイプだったらしい。(今だって、こういう先生はたくさんいると思う。)
その先生が、最初の授業の時にこうおっしゃったそうだ。
「『きく』という漢字は二つあるだろう。もんがまえの「聞く」という字はどういう意味か知っているか?門の中に耳を閉じ込めて外から入ってくるものを排除するのが「聞く」だ。おれの授業はもんがまえの「聞く」できくな。みみへんの『聴く』は耳できいたことを十四遍、心で繰り返すという意味だ。だから、おれの授業は『聴く』できけ。」
ドイツ人の先生の一人称が「おれ」というところで、わたしなんかはもうびびってしまったのだけれど、最初の授業でドイツ語だと思って行ったのに、いきなり漢字の講釈から始まったので、生徒達はさぞかし面食らったことだろう。
私も授業でよく日本語の質問をする。「名詞ってなんですか?」とか「形容詞ってどんな働きがあるんですか?」と聞くと、大概、生徒達は目を白黒させてしまう。しかし、母国語の品詞がなんのことやらわからなければ、外国語なんて勉強できない。外国語学習というのは、単純に言葉を移し替える作業のことを言うのではないから。
ところで、昨晩テレビで「やたら昔を懐かしむ20代」というレポートを見た。
就活を始めようかという大学3年生たちが中学時代の友達たちと京都旅行に行くのだけれど、京都に着いたら、中学の制服に着替え、持って来たその時のアルバムをもとに、修学旅行で行った道のりを一生懸命たどっていた。
なぜ、そういうことをするのかと聞かれて、女の子はこう断言した。
「それくらい、最高に楽しかったからです。」
行ったことのないところに旅行をしてみたくはないか?という質問に、
「知らない場所だと、何があるかわからないし、不安になる。やっぱり安心感が大切っす。」
と、男の子がはにかみながら答えた。
別の大学生は、すでに就職先も内定しているのだけれど、高校の時のメールを全部保管していたり、思い出のアルバムをしょっちゅうひっぱり出して眺めたりして自分を励ましているそうだ。高校時代のプリントも教科書も「思い出は糧」と全部とってある彼は、缶蹴りやだるまさんころんだなどの昔の遊びをやったり、高校の時の制服を着て、文化祭の相談をするHRを再現して録画したりするサークルのリーダーをやっていた。
どの映像からも、不安そうな若者たちの姿が見えた。未知の世界に踏み出すのが怖い、知らないことが怖い、知っていることに囲まれていると安心するから、そこから出たくない。傷つきたくない。 新しいことを見つけるかもしれないというわくわくした気持ちよりも、そこへ飛び込むまでの不安定な事態にどうしようもなく恐怖を感じてしまうのだろう。
小学生低学年の時通っていたスイミングスクールでは、定期的に進級試験があった。決められた泳法で決められた距離(バタフライ以外50mが最低距離)を泳ぎきらなければいけないし、水中でくるっと回るターンなんかもちゃんとできないといけない。泳ぐのは好きだったのだけれど、試験は怖くて嫌いだった。プレッシャーで、普段泳いでいるプールで溺れるのではないかという妄想に完全に挙動不審になった小2まりは、毎回試験前に緊張のあまり泣きわめき、トイレで泡を吐いた(吐くものが無くなって、胃液)。しかし、試験が始まればぺろっと泳いで、「へへへぇ」と、へらへらしながら帰ってくる、非常にめんどくさい子供だった。
たった十数年(はっきりした意思や記憶が形成されてからの年数はせいぜいそれ位だろう)しか生きていないくせに、すでに「ピーク」を自分の中で限定してしまっている「あの頃はじいさんばあさん」のような若者達を見ていて、そんなことを思い出した。
外国語学習をはじめる人にも、「未知の言語を学ぶことに対する漠然とした不安」というのが必ずある。こんなたくさんの単語をどうやって覚えるんだろう、こんなややこしい決まりをどうやって使いこなすのだろうと、わたしも初めてNHKのフランス語講座のテキストを買った時に絶望に近い気持ちになった。
けれど、始めて見るとわかる、実は新しいものを自分の中に取り入れる時、一番向き合わなければならないのは、新しいものではなく、むしろ、いま、そこにある自分自身だったりする。
ここで、冒頭のドイツ語の先生の話にループするのだけれど、外国語を勉強するとき、まずぶち当たるのは、母国語の壁だったりする。
外国語をやる時には、日本語での体系的な文法知識・理解力と明解で論理的な思考力が必要になってくる。という書き方をするとおっかない印象になってしまうので、例をあげると、日本語で「きれいな」と「きれいに」の違いがわからないとフランス語は上達できないし、「Qu'est-ce qui vous importe dans la vie ? (あなたが生きる上で大切だと思うものはなんですか?)」という質問にうまく答えられないのは、実はフランス語力より日本語での発想力・思考力が問題だったりする、ということ。
逆に考えれば、フランス語を学ぶことで、自分の母国語での思考能力を再構築するいいチャンスになる。
言語には、その土地にしかない独特の概念やイメージというものがある。だから、上手く訳せない言葉にもたくさん出会う。つまりは、母国語だけで生きていては、一生出逢うことのないようなことばたちに触れることで、母国語だけで生きていた時よりも、視野も考え方も懐も拡張され、豊かになる。
(ただし、これはあくまで外国語使用前の自分との比較であって、他人との比較ではない。他人との比較でこの定義が当てはまっては、マルチリンガルほど豊かな人であるということになってしまう。非常に知識豊かで能力の高い人もいるだろうけれど、その人が人として「豊か」かどうかは一概には決められない。また、外国語をやることで知識だけが豊かになって、ちっとも人間力が上がらない人もぞくぞく存在する。)
学ぶ、ってそういうことなんだろうなぁ、と最近思う。 就職に役立つとか、意中の人を落とせるとか、儲かるとか、そんな「わかりやすいメリット」がないのに、なんで面倒な外国語を勉強しなくちゃならんのだ、と思う若者がたくさんいると思うけれど、外国語学習を通して、人は色々な自分に気づくことができる。人としてのスキルも上がる。そういう意味では上記の「メリット」だって期待できる。
例えば、外国語では、自分の考えを明確に述べさせられる訓練が非常に多い。そこで、単に自分の意見を振り回すより、他の人の意見を汲んだり、場に気を遣ったりすることができるようになれば、集団面接などでは抜群の効果を発揮する(面接は、気づいていない人が多いが、ライブ感が重要で、どんなにいいことを言っていたとしても、用意して来た台詞の棒読みでは、面接官はうんざりするだけだ)。 それは、場合によっては意中の人を落とす力にだってなるだろうし、ビジネスでも使える力となる。
何よりも、どうしたらいいだろうと考え、自分の中の原石を夢中で磨いていると、やがてその光が外側にも漏れだして、人はきらきらしてくる。そういう人が魅力的でないはずはない。
そういうまぶしい若者が増えるといいなぁ。 そういうまぶしい中年も、老人も、増えるといいなぁ。
。。。。。。。。
タイトルは、「Il y a loin de la coupe aux lèvres (杯から唇までは遠い)」 つまり、「言うは易く、行うは難し」。
はずかしげもなく2日に1回の更新の誓いをしたけれど、まぁぼちぼち、お付き合いください。
「わたしの」外国語学習法考
かた雪かんこ
しみ雪しんこ
鹿の子ぁ嫁ぃほしいほしい
宮沢賢治「雪わたり」
衝撃的事実を明かしますと・・・ フランスのテレビの気象情報は、どのチャンネルもつっこみどころ満載ですが、 個人的に一番気になっていたのはTF1の月~木担当のおばさんの露出過激な服装と、マージ・シンプソン(仏語吹き替え版)激似の喋り方。
おっと、衝撃的なのはそんなことではなくて(ま、ある意味衝撃的ではあるんですが)。 日本人が「雪が降っている」を習うとだいたい Il neige(イル・ネージュ) となるのですが、実際、天気予報でこう言われることは結構稀なのです。
雪が降るでしょうという時は、 flocon(フロコン、un、ふわふわした塊のこと。綿片、オートミールなど。) を複数形で使って、
Quelques flocons (sont) possibles en Ils-de-France イル・ド・フランスで雪がちらつく可能性があります
になるし、雪が積もる場合は une bonne couche de neige と、couhe(クシュ、une 層)を使います。
あ、雪!という時に「イル・ネージュ」と思わず口から出るのは外国人だけという・・・ ま、それは乱暴な話で、日常会話で使われることもありますが、ちょっと衝撃的じゃないですか?
さて、La neige tombe sur la ville de Niigata・・・2008年初雪です。 昨日は風邪気味の上に、明日引っこ抜く親知らずが最後の主張を力なく行い、なんとなくおたふくな顔でごろごろするはめになってしまいました・・・。 そこで、一時期忙しさにまぎれて途中になっていた、ロンブ・カトーの「わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)」を読むことに。以下、長くなりますのでお時間があるときにでも。 ねじれてるひと。
以前この本を紹介したときに、「一週間に平均して10~12時間以上学習しないと身につかない」という件を抜粋したところ、思わぬ反響があったのですが・・・ 記事を読む→フラ語上達の技。 終盤のほうに、またもやガーン!となるやもしれぬ公式を発見しました。 『語学的才能について』という章に記されているのですが、
消費された時間+意欲(関心度) =結果 羞恥心
上リンクの前回の記事で、確か、「一番いい単語暗記の方法は人前で間違えること」と書いたのですが、そのテーゼ(?)を悪魔的に証明しているのがこの式でございます。
分母が一種のブレーキの作用として在り、どんなに時間を消費しても、どんなに意欲があっても、効率的に結果が出にくくなってしまう。羞恥心のために、誤りを犯すことを恐れ喋らなくなってしまう(心理学で言う阻止現象)、論理的基盤を失うのを恐れるあまり、母国語の規範にしがみつき、なかなか外国語の規範に移ろうとしない(又は、以前に身に着けた外国語の規範にしがみつく)・・・
ただし、もしも分母が0だった場合に、この呪われた(!)数式の足かせ部分がチャラになるかというと必ずしもそうとは言えないのです。
教育学の見地からすると、最も価値あるのは誤り、それもわれわれ自身によってなされた誤りです。自分の間違いに気づくことが出来たとしたら、その誤りを、笑われたり、驚かれたり、常識を疑われたり、時には同情されたり、自尊心を傷つけられたりしながら指摘されたとしたら、このときに生じるわたしの感情、目には見えないかもしれないもののわたし自身のそれに対する反応が、[記憶の] 定着化のための補助用具の役割を果たすのです。 p.189, 16 われわれが外国語で話すときのメカニズムはどうなっているのか? わたしの外国語学習法、ロンブ・カトー著 米原万里訳 ちくま文庫)
つまり、羞恥心が「定着」という作業の潤滑油だとしたら、まったく羞恥心がなければ上の作用は起こりえないのです。諸刃の剣というべきメカニズム・・・。
ところで、彼女が述べている先の式について、これはなにも私達を脅かそうというのではなくて、語学を習得するには特別な才能が必要だ、とする巷の偏見を覆すもの。
よく、「もう●年も勉強しているのに、ちっとも上達しない」という声を聞きます。(これは何の習い事でも当てはまると思います)
学習環境や、ついている先生にもよるというのは実は微々たる影響でしかありません。その言葉を母国語とする先生に習わなければ上達は見込めないとか、留学しなければ使いこなせるようにはならない、だから「母国から出ずに語学習得というのは寝言のようなものだ」、「行ってしまえば何とかなる」という考え方はたちの悪い宗教のようなもので、恥ずかしながらわたしも長いこと盲目的に唱えていた御題目です。
しかし、0のまま果敢にもやって来て、心身を壊し、目をつぶりたくなるような思い出しか蓄積しないまま自国に戻る人、一体何を学んだのか自分自身さえもわからない、そんないたずらな時間を過ごしてたゆたうように帰国する人・・・そんな人たちをたくさん見てきました(日本人だけに限りません。しかし、そういった日本人の割合は残念ながら多いと言わざるを得ないのです)。
その一方で、わたしの友人たちにも多くいますが、それほど長期の語学研修を受けずに効率よく外国語を複数ものにしていく、という人々が存在します。
学歴や職種は関係ないのです。(これは、私の日本での学歴がいい証明になります) 友人の美容師(日本人)は、驚くべき柔軟さと表現力、語彙力、滑らかな話力でフランス人たちと意思疎通を図ります。
ある時、語学というのは天から降ってくるものではなく、自分がどんどん下に根をはって伸ばしていくものだと気づいたとき、自分というアイデンティティや生活から切り離した別次元で学ぼうとしていては決して「定着」しないということに気がつきました。
それが、「日本で使えるフランス語を教えたい」というコンセプトとして、今のe-corを打ち立てるきっかけになったと言えます。
長々と論じてしまいましたが、最後に、カトー氏の言葉を上達に悩む方々に。
(...)自分の内に真の関心があるものかどうか確かめてみることです。真の関心のおかげで、御承知のように、是が非でも望みをかなえたいという強い意思が生まれるのです。 p.226
フランス語上達の技。
Sincèrement votre, (こころから、あなたの)
すごいかっこいいバンドを見つけた。 Naturalibus(ナチュラリブス)
あー、ライブを見るためだけにでもバスチーユまで行きたい・・・ たまたまFrance Inter(ネットラジオ)をつけたら、この人達のインタヴューだったのですが、すっかりはまりました。こういう時、iTMSのフランス版プリカを買っておけばよかったと後悔します。今度誰かに買って送ってもらおう。 しょうがないのでまたアマゾネスFR。 (これだけ利用してるんだからたまにはギフトぐらいつけてくれてもいいのに。ぶちぶち。)
「ナチュラリブス」って、日本人の語感から言うと、なんか「素でブス」みたいな不埒なイメージがつい沸いてしまうのですが、例のごとくウンチクをたれますと、ラテン語で「裸の」という意味になります。
(正式にはin naturalibusで、"Dans l'état de nudité,裸の状態で")フラ語表現でもそのままin naturalibus(イン ナチュラリブス)と使うらしいですが、
Il m'a surprit in naturalibus. (生まれたままの姿の彼に驚いた)
という例に驚いた、ウィキショネール先生。危ない全裸男登場をアカデミックに表現するなんともせつない例です。
ま、それは置いておいて。
ここにも前からよく「類友」という話題を書いているが、わたしは自分の状態(肉体的、精神的及び魂的)がすべて自分にまつわる現象を起こしているという考えを持っている。 トータルでそういう風に考えることができればいいのだけれど、今はまだ修行中の身で、理不尽なことが起きるとつい憤慨してしまうのですが。 だから、新しい出会いなんかも、実はどっかからお互いに見えない電波を飛ばし合って、引き寄せあうんだろうなと感じる。日々、考えていることが誰かの口から出てきたり、読んでいる本の一行から現れたりすると、あ!シンクロ!とうれしくなる。
図書館で借りた「わたしの外国語学習法 」(ロンブ・カトー著、米原万里訳、ちくま学芸文庫)を読んでいたら、(またラテン語・・・ごめんなさい)
docendo discimus (ドケンド ディスキムス) 「教えながら自ら学ぶ」
という言葉にぶつかって「わあ!」と歓声をあげてしまった。
どうしたら単語を覚えられるのか?という疑問。
これは誰もが外国語を学ぶときに苦悩の中で呟くもの。わたしも、色々な先生に聞いたことがある。 書いて覚えるとか、繰り返し口にするとか、テープに取るとか、色々なアドヴァイスを頂いて、試してみるのだけれどなかなかくっきりした成果が現れているような実感が持てない。 そんな中、わたしが色々試した結果、使えると判断した非常にオーソドックスな方法を記しておきます。残念ながら魔法のような方法はありませんので、あしからず。 他にもいい方法が見つかったら更新します。
フランス語を使うべし。
とりあえず、2番めにいい方法だと思っているのは「使うこと」。 単語を覚えなければならないとき、こじ付けでもいいから無理やり自分の会話の中にその単語を使う。
友達とのメールに書く。
普段フラ語を使う環境にいないのなら、例えばこうしてblogに書く。(←これも、最初のうちは赤面な大間違いを世界中に晒すことになるので本当に恥ずかしい。わたしなんか今でもしょっちゅうやらかしますが。)
ひとりごとを言う。普段、フランス語で会話をする機会がないとしても、普段自分が日本語で行っている思考を隅々までフランス語で口に出す。また、自分の気持ちや考えをフランス語で説明してみる(例えば、自分はフランス語のどんなところが難しいと思っているのか、とか、今付き合っている彼氏・彼女や妻・夫・友達などと、どんな風にして出会ったのかとか、今週の予定とか、好きなモノについてとか。)
使うには、その単語を知っていなくてはならないから、使うことで脳は「あ、自分はこの言葉を知っているんだ」と納得することができるというからくり。
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人前で間違えるべし。
一番手っ取り早い方法は「人前で間違う」というなんともマゾヒスティックな方法でございます。
恥ずかしいと感じると脳の危機管理機能がフルで働き、一発で頭に刷り込まれ、二度と間違えない。 ただ、この技は心臓に負担がかかる(!)のでご注意を。また、人前で大間違いすることをなんとも感じない毛がぼうぼう生えている心臓の持ち主の場合、残念ながらこの手法は効かない。
目次へ
教えるべし。
教わってるというのになんと狂ったアドバイスだと思われるかもしれませんが・・・
なんの分野でも習得のリズムは個々違います。だから、スタートが同じでも、しばらくすれば個々の天性の勘や今までの文化的な蓄積、生きた年数なんかが関わって差がでてきます。
先にできている流れに途中から加わるのは気後れがしてしまいがちです。 「自分ひとりだけできないのでは、ほかの人に迷惑がかかってしまう・・・。」
リズムの早い人はイライラします。 「なんでそんなこともわかんないかな~!!やる気あんの?」
ゆっくりさんは逆切れします。 「わかってるんなら、もっと高度なところに習いに行けばいいじゃん!あんたの独壇場のためにお金払ってんじゃないんだから」
(これ、わたしが実際語学学校にいた時に感じた空気の一例です)
e-corのフィロソフィーにも書いているのですが、授業中に一番耳に残るのは、実は先生の説明ではなく、クラスメイトの発言だったりします。 そして、「使う」ことでしっかり脳みそに焼き付けるには、人に「教える」ことが手っ取り早い方法なのです。
少しずつ複雑になってきたときに、「わかる人」が、「わからない」人に仕組みを説明するということで、わかる人もわからない人も一石二鳥に宝を分かち合うことができてしまいます。 教えてみるとわかるのですが、あいまいな知識で人に教えるのはとても難しい! だから、実際教えてみて、できなかったとしたら、「わたしはこれを知っている」と勘違いしていたことに気づかせてもらえる。「できない」人は、足手まといどころか、天使のような人になってしまうのです。
人は自分ひとりでは絶対に成長できません。
自分のために、もちろんですが、人のために、仲間と知識を分かち合うために覚えようと思えば、少し苦労も軽減するような気がします。。。情けは人のためならず。
e-corでは、自然に「できる」人が「できない」人に教えることで授業が進んでいくという状況を実現していきたいなと常に思っています。
「わたしの外国語学習法」、作者は16カ国語を身につけた経験を語っているのですが、語学は少なくとも週に10~12時間学んでいなければ、使えるようにはならないそうです。わたしもそう思います。最低でも一日1時間半。
さっきお昼のFrance2のニュースでサルコジがカーラ・ブルーニと付き合ってると報道されていました。元妻といい、なんで自分より遥かにでっかい人ばっかり選ぶんでしょうね。。。