大学の私のクラスでは1学期に2回テスト(小テスト・期末試験)をしている。その奮闘具合は大いに成績に反映されるので、当日は、みんなピリピリヒヤヒヤしながら教室にやって来る。 試験の日、20分以上の遅刻者は、正当な理由がない場合はお帰りいただく。気のゆるみにせよ(ここで気がゆるむことそれ自体がすでに問題だけれど)、精神的・身体的な問題があるにせよ、大事な日にきちんと間に合えないというのは、勉強云々以前の問題で、まずそこをなんとかしない限り、社会では信用してもらえない。 ある年の試験日、遅刻魔の彼は、20分過ぎに飛び込んで来た。 茶髪はボサボサ、猛烈に走って来たのか、ハァハァと肩が上下した状態で、私の前に立つ。 「20分過ぎてるよ。」 「ハイ。」 「寝坊した?」 「ハイ。」 「学生証。」 「あ・・・」 彼は非常に大柄で、座っている私の前に立つと、多分向こうからは完全に私が隠れてしまう。 その熊のような彼が身体を縮めてゴソゴソとリュックをかき回して学生証を探している間、ふと私が顔を上げると丁度彼の股間が私の目の前にあった。社会の窓がオッス!と全開になっている。この開け放した状態で、このでっかい身体が全力で走って来たのかと思ったら、笑いが温泉のようにこみ上げてくる。 「・・・時間一杯がんばりなさい。」 「ハイ。」 チャックあいてるよ、と言おうかと思ったのだけれど、試験前に変なダメージを与えてもなと、考え直し、気づかないふりをした。試験の後トイレに行けば嫌でも気づく。しょーがねーなーもう。 彼は集中力と「馬力」があり、やればぐいぐい進めるタイプなのだけれど、こういう落ち着きのなさから、その時の試験も問題の読み違いをして取れる問題を落としていた。答案を見ながら、ためいきが出た。
フランス語上達の技。
Sincèrement votre, (こころから、あなたの)
すごいかっこいいバンドを見つけた。 Naturalibus(ナチュラリブス)
あー、ライブを見るためだけにでもバスチーユまで行きたい・・・ たまたまFrance Inter(ネットラジオ)をつけたら、この人達のインタヴューだったのですが、すっかりはまりました。こういう時、iTMSのフランス版プリカを買っておけばよかったと後悔します。今度誰かに買って送ってもらおう。 しょうがないのでまたアマゾネスFR。 (これだけ利用してるんだからたまにはギフトぐらいつけてくれてもいいのに。ぶちぶち。)
「ナチュラリブス」って、日本人の語感から言うと、なんか「素でブス」みたいな不埒なイメージがつい沸いてしまうのですが、例のごとくウンチクをたれますと、ラテン語で「裸の」という意味になります。
(正式にはin naturalibusで、"Dans l'état de nudité,裸の状態で")フラ語表現でもそのままin naturalibus(イン ナチュラリブス)と使うらしいですが、
Il m'a surprit in naturalibus. (生まれたままの姿の彼に驚いた)
という例に驚いた、ウィキショネール先生。危ない全裸男登場をアカデミックに表現するなんともせつない例です。
ま、それは置いておいて。
ここにも前からよく「類友」という話題を書いているが、わたしは自分の状態(肉体的、精神的及び魂的)がすべて自分にまつわる現象を起こしているという考えを持っている。 トータルでそういう風に考えることができればいいのだけれど、今はまだ修行中の身で、理不尽なことが起きるとつい憤慨してしまうのですが。 だから、新しい出会いなんかも、実はどっかからお互いに見えない電波を飛ばし合って、引き寄せあうんだろうなと感じる。日々、考えていることが誰かの口から出てきたり、読んでいる本の一行から現れたりすると、あ!シンクロ!とうれしくなる。
図書館で借りた「わたしの外国語学習法 」(ロンブ・カトー著、米原万里訳、ちくま学芸文庫)を読んでいたら、(またラテン語・・・ごめんなさい)
docendo discimus (ドケンド ディスキムス) 「教えながら自ら学ぶ」
という言葉にぶつかって「わあ!」と歓声をあげてしまった。
どうしたら単語を覚えられるのか?という疑問。
これは誰もが外国語を学ぶときに苦悩の中で呟くもの。わたしも、色々な先生に聞いたことがある。 書いて覚えるとか、繰り返し口にするとか、テープに取るとか、色々なアドヴァイスを頂いて、試してみるのだけれどなかなかくっきりした成果が現れているような実感が持てない。 そんな中、わたしが色々試した結果、使えると判断した非常にオーソドックスな方法を記しておきます。残念ながら魔法のような方法はありませんので、あしからず。 他にもいい方法が見つかったら更新します。
フランス語を使うべし。
とりあえず、2番めにいい方法だと思っているのは「使うこと」。 単語を覚えなければならないとき、こじ付けでもいいから無理やり自分の会話の中にその単語を使う。
友達とのメールに書く。
普段フラ語を使う環境にいないのなら、例えばこうしてblogに書く。(←これも、最初のうちは赤面な大間違いを世界中に晒すことになるので本当に恥ずかしい。わたしなんか今でもしょっちゅうやらかしますが。)
ひとりごとを言う。普段、フランス語で会話をする機会がないとしても、普段自分が日本語で行っている思考を隅々までフランス語で口に出す。また、自分の気持ちや考えをフランス語で説明してみる(例えば、自分はフランス語のどんなところが難しいと思っているのか、とか、今付き合っている彼氏・彼女や妻・夫・友達などと、どんな風にして出会ったのかとか、今週の予定とか、好きなモノについてとか。)
使うには、その単語を知っていなくてはならないから、使うことで脳は「あ、自分はこの言葉を知っているんだ」と納得することができるというからくり。
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人前で間違えるべし。
一番手っ取り早い方法は「人前で間違う」というなんともマゾヒスティックな方法でございます。
恥ずかしいと感じると脳の危機管理機能がフルで働き、一発で頭に刷り込まれ、二度と間違えない。 ただ、この技は心臓に負担がかかる(!)のでご注意を。また、人前で大間違いすることをなんとも感じない毛がぼうぼう生えている心臓の持ち主の場合、残念ながらこの手法は効かない。
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教えるべし。
教わってるというのになんと狂ったアドバイスだと思われるかもしれませんが・・・
なんの分野でも習得のリズムは個々違います。だから、スタートが同じでも、しばらくすれば個々の天性の勘や今までの文化的な蓄積、生きた年数なんかが関わって差がでてきます。
先にできている流れに途中から加わるのは気後れがしてしまいがちです。 「自分ひとりだけできないのでは、ほかの人に迷惑がかかってしまう・・・。」
リズムの早い人はイライラします。 「なんでそんなこともわかんないかな~!!やる気あんの?」
ゆっくりさんは逆切れします。 「わかってるんなら、もっと高度なところに習いに行けばいいじゃん!あんたの独壇場のためにお金払ってんじゃないんだから」
(これ、わたしが実際語学学校にいた時に感じた空気の一例です)
e-corのフィロソフィーにも書いているのですが、授業中に一番耳に残るのは、実は先生の説明ではなく、クラスメイトの発言だったりします。 そして、「使う」ことでしっかり脳みそに焼き付けるには、人に「教える」ことが手っ取り早い方法なのです。
少しずつ複雑になってきたときに、「わかる人」が、「わからない」人に仕組みを説明するということで、わかる人もわからない人も一石二鳥に宝を分かち合うことができてしまいます。 教えてみるとわかるのですが、あいまいな知識で人に教えるのはとても難しい! だから、実際教えてみて、できなかったとしたら、「わたしはこれを知っている」と勘違いしていたことに気づかせてもらえる。「できない」人は、足手まといどころか、天使のような人になってしまうのです。
人は自分ひとりでは絶対に成長できません。
自分のために、もちろんですが、人のために、仲間と知識を分かち合うために覚えようと思えば、少し苦労も軽減するような気がします。。。情けは人のためならず。
e-corでは、自然に「できる」人が「できない」人に教えることで授業が進んでいくという状況を実現していきたいなと常に思っています。
「わたしの外国語学習法」、作者は16カ国語を身につけた経験を語っているのですが、語学は少なくとも週に10~12時間学んでいなければ、使えるようにはならないそうです。わたしもそう思います。最低でも一日1時間半。
さっきお昼のFrance2のニュースでサルコジがカーラ・ブルーニと付き合ってると報道されていました。元妻といい、なんで自分より遥かにでっかい人ばっかり選ぶんでしょうね。。。