photo credit : Anthony Georgeff
ここを作るのにだいぶ時間が経ってしまった。数日ずっとよくわからないWordpressをいじっていたので、器官(弱い)に疲れが直撃。
週1でフランス語を教えている専門学校の教務室では、色々な先生たちと一緒になる。みなさん大先輩なのだが、様々な逸話を聞くのを、常日頃密かに楽しみにしていた。学期末の先日、恒例の2コマ連続授業があった時、ある先生に聞いた話:
先生(おそらく六十代)がその昔大学生だった頃、第2外国語でドイツ語を選択した。
担当した講師はドイツ人男性で、おっかない先生だったという。
「文法なんて考える必要はない。俺の言うことをそのまま丸暗記しろ。」
という軍隊タイプだったらしい。(今だって、こういう先生はたくさんいると思う。)
その先生が、最初の授業の時にこうおっしゃったそうだ。
「『きく』という漢字は二つあるだろう。もんがまえの「聞く」という字はどういう意味か知っているか?門の中に耳を閉じ込めて外から入ってくるものを排除するのが「聞く」だ。おれの授業はもんがまえの「聞く」できくな。みみへんの『聴く』は耳できいたことを十四遍、心で繰り返すという意味だ。だから、おれの授業は『聴く』できけ。」
ドイツ人の先生の一人称が「おれ」というところで、わたしなんかはもうびびってしまったのだけれど、最初の授業でドイツ語だと思って行ったのに、いきなり漢字の講釈から始まったので、生徒達はさぞかし面食らったことだろう。
私も授業でよく日本語の質問をする。「名詞ってなんですか?」とか「形容詞ってどんな働きがあるんですか?」と聞くと、大概、生徒達は目を白黒させてしまう。しかし、母国語の品詞がなんのことやらわからなければ、外国語なんて勉強できない。外国語学習というのは、単純に言葉を移し替える作業のことを言うのではないから。
ところで、昨晩テレビで「やたら昔を懐かしむ20代」というレポートを見た。
就活を始めようかという大学3年生たちが中学時代の友達たちと京都旅行に行くのだけれど、京都に着いたら、中学の制服に着替え、持って来たその時のアルバムをもとに、修学旅行で行った道のりを一生懸命たどっていた。
なぜ、そういうことをするのかと聞かれて、女の子はこう断言した。
「それくらい、最高に楽しかったからです。」
行ったことのないところに旅行をしてみたくはないか?という質問に、
「知らない場所だと、何があるかわからないし、不安になる。やっぱり安心感が大切っす。」
と、男の子がはにかみながら答えた。
別の大学生は、すでに就職先も内定しているのだけれど、高校の時のメールを全部保管していたり、思い出のアルバムをしょっちゅうひっぱり出して眺めたりして自分を励ましているそうだ。高校時代のプリントも教科書も「思い出は糧」と全部とってある彼は、缶蹴りやだるまさんころんだなどの昔の遊びをやったり、高校の時の制服を着て、文化祭の相談をするHRを再現して録画したりするサークルのリーダーをやっていた。
どの映像からも、不安そうな若者たちの姿が見えた。未知の世界に踏み出すのが怖い、知らないことが怖い、知っていることに囲まれていると安心するから、そこから出たくない。傷つきたくない。 新しいことを見つけるかもしれないというわくわくした気持ちよりも、そこへ飛び込むまでの不安定な事態にどうしようもなく恐怖を感じてしまうのだろう。
小学生低学年の時通っていたスイミングスクールでは、定期的に進級試験があった。決められた泳法で決められた距離(バタフライ以外50mが最低距離)を泳ぎきらなければいけないし、水中でくるっと回るターンなんかもちゃんとできないといけない。泳ぐのは好きだったのだけれど、試験は怖くて嫌いだった。プレッシャーで、普段泳いでいるプールで溺れるのではないかという妄想に完全に挙動不審になった小2まりは、毎回試験前に緊張のあまり泣きわめき、トイレで泡を吐いた(吐くものが無くなって、胃液)。しかし、試験が始まればぺろっと泳いで、「へへへぇ」と、へらへらしながら帰ってくる、非常にめんどくさい子供だった。
たった十数年(はっきりした意思や記憶が形成されてからの年数はせいぜいそれ位だろう)しか生きていないくせに、すでに「ピーク」を自分の中で限定してしまっている「あの頃はじいさんばあさん」のような若者達を見ていて、そんなことを思い出した。
外国語学習をはじめる人にも、「未知の言語を学ぶことに対する漠然とした不安」というのが必ずある。こんなたくさんの単語をどうやって覚えるんだろう、こんなややこしい決まりをどうやって使いこなすのだろうと、わたしも初めてNHKのフランス語講座のテキストを買った時に絶望に近い気持ちになった。
けれど、始めて見るとわかる、実は新しいものを自分の中に取り入れる時、一番向き合わなければならないのは、新しいものではなく、むしろ、いま、そこにある自分自身だったりする。
ここで、冒頭のドイツ語の先生の話にループするのだけれど、外国語を勉強するとき、まずぶち当たるのは、母国語の壁だったりする。
外国語をやる時には、日本語での体系的な文法知識・理解力と明解で論理的な思考力が必要になってくる。という書き方をするとおっかない印象になってしまうので、例をあげると、日本語で「きれいな」と「きれいに」の違いがわからないとフランス語は上達できないし、「Qu'est-ce qui vous importe dans la vie ? (あなたが生きる上で大切だと思うものはなんですか?)」という質問にうまく答えられないのは、実はフランス語力より日本語での発想力・思考力が問題だったりする、ということ。
逆に考えれば、フランス語を学ぶことで、自分の母国語での思考能力を再構築するいいチャンスになる。
言語には、その土地にしかない独特の概念やイメージというものがある。だから、上手く訳せない言葉にもたくさん出会う。つまりは、母国語だけで生きていては、一生出逢うことのないようなことばたちに触れることで、母国語だけで生きていた時よりも、視野も考え方も懐も拡張され、豊かになる。
(ただし、これはあくまで外国語使用前の自分との比較であって、他人との比較ではない。他人との比較でこの定義が当てはまっては、マルチリンガルほど豊かな人であるということになってしまう。非常に知識豊かで能力の高い人もいるだろうけれど、その人が人として「豊か」かどうかは一概には決められない。また、外国語をやることで知識だけが豊かになって、ちっとも人間力が上がらない人もぞくぞく存在する。)
学ぶ、ってそういうことなんだろうなぁ、と最近思う。 就職に役立つとか、意中の人を落とせるとか、儲かるとか、そんな「わかりやすいメリット」がないのに、なんで面倒な外国語を勉強しなくちゃならんのだ、と思う若者がたくさんいると思うけれど、外国語学習を通して、人は色々な自分に気づくことができる。人としてのスキルも上がる。そういう意味では上記の「メリット」だって期待できる。
例えば、外国語では、自分の考えを明確に述べさせられる訓練が非常に多い。そこで、単に自分の意見を振り回すより、他の人の意見を汲んだり、場に気を遣ったりすることができるようになれば、集団面接などでは抜群の効果を発揮する(面接は、気づいていない人が多いが、ライブ感が重要で、どんなにいいことを言っていたとしても、用意して来た台詞の棒読みでは、面接官はうんざりするだけだ)。 それは、場合によっては意中の人を落とす力にだってなるだろうし、ビジネスでも使える力となる。
何よりも、どうしたらいいだろうと考え、自分の中の原石を夢中で磨いていると、やがてその光が外側にも漏れだして、人はきらきらしてくる。そういう人が魅力的でないはずはない。
そういうまぶしい若者が増えるといいなぁ。 そういうまぶしい中年も、老人も、増えるといいなぁ。
。。。。。。。。
タイトルは、「Il y a loin de la coupe aux lèvres (杯から唇までは遠い)」 つまり、「言うは易く、行うは難し」。
はずかしげもなく2日に1回の更新の誓いをしたけれど、まぁぼちぼち、お付き合いください。