欲しい・・・。
生意気なことを書きます。 そいでもって、この考えはまた変わるかもしれないです。
翻訳という仕事は、本当に責任重大だよな、と思う。 趣味で試験的に翻訳をし始めた頃、「句読点の位置が!」と思った。
原本に忠実にウツベキデアル。と。
わりと、そう考えているプロの翻訳家って大勢いると思う。 そして、それだから訳がわけのわからないことになっている。 フランス語にとっての句読点と、日本語の句読点は、機能からして違うのだから同じ場所でうてる訳がない。両言語の構成の仕方が全く違うし、単純に息継ぎとしての役目を考えても、両言語の間に差が出るのは当たり前。
それを、律儀に点の場所までトレースしようとするから日本語で書かれているのにそうとは思えないグロテスクな文字の塊になる。こうなってしまっては、もう目が拒否するから先に進めない。それであきらめた本がある。
句読点の度に過呼吸になりそうになって、いい加減身の危険を感じてやめた。プルーストの「失われた時を求めて」以来だ、
「このまま読んでいたら病気になるかもしれない」
って思ったのは。 (プルーストの場合は、ワンフレーズが一頁半続いたりするので、息を吐ききってしまうと主語がなんだったのか忘れてしまうため、無呼吸症候群に陥る。脳に空気が足りなくなって、ちょうど「私」とかスワンが恍惚となるシーンで一緒にラリることができたりするので、そこでストレス発散ができる、かもしれない。どちらにしても、ヤバイ世界。)
あの長いフレーズは作者の喘息が作り出す、とかいう考証もあったりしましたね、そういえば。 そういう意味では、読んでて面白い訳ってなかなか見つけるのが大変かもしれない。 (だから文学部に入ってフランス文学を専攻するまで、仏文というものを毛嫌いしていた)
久々のヒットはモンテーニュの「エセー」。宮下志朗訳(白水社)は、たまにこの句読点問題で息苦しくなるけれど、全体的に読みやすくおもしろい。モンテーニュのおやじっぷりもよく醸し出されている。宮下バージョンは現在第3巻(全7巻の予定)が出たところで、日本語を読んでいてフランス語現代語訳版が読んでみたくなった。ネットだと原本を読むことができるけれど、16世紀のフランス語は微妙に読みにくい。
それにしても、今の自分を省みて、モンテーニュ(38歳で他界)は老成している・・・同じ30代というのは、色んな意味でショッキング。 「友情について」という話は、昔語学学校にいたときに抜粋を読まされて(それも無謀な話だ)、フランス語の難解さに一種のトラウマになってしまっていたのだけれど、抜粋部分がこんなところだったら、さっさと3巻すべて読んでいたのに。
子供から父親への気持ちというのは、むしろ尊敬の念ということだ。友情は、人間どうしのつきあいで培われるわけだけれども、父と子では、あまりにかけ離れていて、それは不可能だし、自然の義務にも反するようなことになりかねないのではないだろうか。
[...]だが、こうした生来のきずなをしりぞけるような哲学者もいた。アリスティッポスが好例で、
「あなたから出てきた子供なのだから、愛情を持つのが当然ではないか」
と迫られると、彼は唾をペッと吐いて、
「これだって、わたしから出たんだぞ。われわれから、シラミやウジだって湧くことがあるじゃないか」
といった。プルタコスが、ある人を兄弟と和解させようとしたところ、
「同じ穴から出てきたからといって、大事に思ってやるいわれはない」
と言い返したという。
「エセー」第1巻 第27章「友情について」 ミシェル・ド・モンテーニュ著 宮下志朗訳、白水
絶妙な脱線具合ほんと好き。
この「友情について」では、「愛情」と「友情」の違いについてや、今なら「ポリコレ棒」で滅多打ちされそうな「女性にはムリ」という「聖なる結びつきをはぐくむ」友情についての考察がとても面白い。
宮下版は、膨大な中から粋な抜粋をした「エセー抄」(白水社)があるから、いきなりこの量はちょっと・・・という方にお勧めです。
フランス語で夏休みにちょっとじっくり読んでみようか。8月は誕生日もあることだし、プレゼントにフォリオ全3巻頼んだりして。。。でも、もし私が友達とか彼氏とか親とかの立場で、プレゼントに「モンテーニュのエセー」って目を輝かせて言われたら、結構引きます。
いろいろやりにくい世の中。