貯金もでき、一応1年ちょっとフランス語を習いながらナント大学付属の語学学校への申し込みも済み、いよいよ大使館に長期滞在ビザの申請に行くことになった。10年前のことだ。「留学ガイド」によれば、このビザ申請が、留学希望者にとっての第1の関門になるらしい。南麻布にあるフランス大使館は、申請を午前11時までしか受け付けていない。戦いに備えて、当時仙川に住んでいた高校時代の友人のところに一泊させてもらうことになった。
友人も同居している彼女の妹もとても朝早く出勤するため、合鍵を預かり、最後に出る私が鍵をかけ、アパートのドアについている新聞受けから玄関の中へ鍵を滑らせて返却し出発、という段取りになり、その日は早めに就寝した。
翌朝、友人と妹を見送った私は余裕を持って支度をし、玄関で、念のためにもう一度申請に必要な書類を確かめるとリュックの中に大切にしまい、小さなショルダーバッグを肩からかけると、合鍵を手に玄関を出る。この鍵は、作り方が悪かったのか癖があるので、かけるのに少々手こずると聞かされていた。案の定、しばらくがちゃがちゃやって、やっとこさ閉まる。よし、とドアの新聞受けから鍵を流し込み、鍵がかちゃりと玄関の三和土に落ちた音を確認して、軽快に階段を降りる。と、違和感を感じた。これから、未知への冒険の第一歩を踏み出すのだから、足取りも軽いのはわかる。が、なんだか、軽すぎる。
背中に、しょっているはずのリュックがなかった。
私の背中にないということは、ひんやりした玄関にいまだ鎮座ましましておられるのに違いない。申請用書類の全てを人質にして。
一瞬のうちに、様々な可能性がかちゃかちゃと音を立てて頭の中で繰り広げられた。 友人に電話する→ 出勤したばかりの彼女を、こんなとほほな理由で引き返させるわけにはいかない。 妹に連絡する→ そもそも電話番号を知らない。こんなとほほな理由で呼び出したら、「姉の友人にしてはまあまあマトモ」という現在の私に対する評価は「さすが姉の友人だけある」まで暴落し、今後は軽蔑のまなざしを投げられ、口を利いてくれないに違いない。 今日は申請をあきらめる→今日は金曜日だから、この機会を逃したら来週の月曜日まで待たなければならない(治外法権ガッデム!)。帰りの新幹線は格安チケットで取ってあるし、月曜日には仕事に行かねばならない。
・・・なんとしても、自力で取り戻さねば。そうだ、サヴァイヴァルはここから始まるのだ!できる!わたしならできる!そうだ、引っ張れ、つり上げろ!Oh Hisse! Oh Hisse ! (綱引きの「オーエス」はフランス語から来ています。)
脳内麻薬で軽く盛り上がると、ドアのポストにへばりつくようにして中を覗き込み、鍵の位置を確認する。幸いなことに、ポストから見えるところに鍵を発見。しかも、鍵には色あせたリボンが輪になってついている。ナイスリボン。何か長い棒で引っ掛ければ取れるだろう。しかし、急がなければならない。11時までに大使館に滑り込まなければ、何もかもアウトだ。 きょろきょろと辺りを物色し、まず、玄関のドアの横に、無造作に立てかけてあったプラスチックの柄のほうきを見つけた。しかし、ほうきは思ったより短く、三和土まで届かない。私はほうきを潔く投げ捨て、ドアの横手、浴室の窓の柵に掛かっているビニール傘を手に取った(この時点で、他人のものという意識はゼロ)。傘の持ち手でリボンを引っ掛けようというこの上なく陳腐な策である。ポストは間口が狭く、傘は先だけしか入らない。しかし、傘の柄だけにしてしまえば入るに違いない。私は傘の骨と皮(ビニール部分)を残虐な手つきで分解しにかかった。しかし、アルミとはいえ、傘の骨はなかなか頑丈で、柄の部分を残して全てを外すのは至難の業だ(だいたいから、そんな姿の傘など見たことがない)。汗をかきながら、蝶番をぐにゃぐにゃしたりぐるぐるしたりしていた時、隣の部屋のドアががちゃがちゃと鳴る。 その時、私は人様の家のドアの前で、さんさんと朝日を浴びて、複雑骨折したタコのようなビニール傘と一心不乱に格闘していたのだから、端から見ればこの上なく怪しい不審者、通報されても文句が言えない。
どうする、どうしよう。
隣の家のドアが開き、一目で寝起きとわかる若い女性が、鞄やらゴミ袋やらを抱えて出てきて、私に気づくと、ノーメイクの顔を背けるようにして小さく「オハヨウゴザイマス」と言い、小走りにアパートの階段を降りて行った。
ほっと胸を撫で下ろす。
危機管理がなっとらん。こんなに怪しいのに。 いや、怪しかったから、逃げるように出て行ったのかもしれない。急がないと、おまわりさんが来てしまう。あちこち折り曲げられたあげく閉じられなくなり、気がふれたクラゲのようになってしまったビニール傘を手に、我に返った私は、キクラゲ(キは気がふれたのキ)を放置し、階下にかけ降り、やけくそで別の獲物を探してうろついた。
そして、とうとう、他所様の家の物干し場に投げられていた1本の竿を発見した。なんと、ステンレスの棒の先に?型のフックが付いている。経年で少しフックがぐらぐらしているが、まさに、ドアポストから玄関に落ちている鍵を拾う専用としか思えない作りに、しばらく感動に包まれて眺めていた。
専用棒を手にドアに戻ると、おそるおそるポストに差し込む。入った。
フックが取れてしまわないよう細心の注意を払いながら、角度を微妙に変えて鍵のリボンにひっかかるように、慎重に慎重に竿を動かす。 栄光の瞬間は、もう目の前に迫っていた。 私のフランスへの旅立ちは、こうして(粗忽丸出しで)始まったのだった。