本物を、生で。
ビールの宣伝ではなく、歌丸師匠です。
去年の夏、怪談牡丹灯篭を聴きに行き損ねたのをとても後悔していたのだけれど、それにしてもパリで歌丸さんを聴けるのは、ドキドキ初体験、そして最初で最後ではないかと思います。 別に、寿命がとかいうのではなく(失礼!)、落語もやっぱり縁の問題だから、たとえ今後巴里口演が継続されたとしても、わたしがそのときパリにいるかどうかはかなり怪しい、ということ。
師匠がトリで出てきただけで、会場がわっとなってぎゅっとなりました。 えーと、もっとインテリジェンスな言葉で言い表したいんですけれど、生憎、適当なボキャブラリーが見つかりません。 でも、本当に、みんなが大喜びして、それぞれの心が躍っているのがわかった。
「歌丸だ!」とみんながうれしくなってしまった。 落語は特に、演者がどんな人なのかというのがわかりやすく現れ、それが観客の好みに大きく影響すると思う。それが落語の面白いところでもあり、厳しいところでもある。 「師匠」と名のつく真打さんたちは、それぞれ修行をし、芸を磨き、たくさんの経験をへて味を出していくけれど、その何百人と言う人たちは曼荼羅に書かれた諸仏さんたちみたいだ。磨き方も、魅せ方も十人十色。 けれど、やっぱり歌丸クラスの人たちというのは、なんというか、みんな共通の何かをきちんとこなしている人たちだと思う。 それは、すごくシンプルだけど、当たり前にはなかなかできない、 「ありがとう」 だと思った。 媚びるのでも、自分に強いるのでもなく、当たり前に、 「お客さん、来てくれてありがとう。」と思うこと。
以前、立川談志の頭の下げ方に本当に感動したことがあった。こんな風に心からお辞儀ができる人になれたらなあ! 心から「けっ、客なんて」と思っている噺家さんはいないとは思うけれど、「ありがとう」がまず一番なことって難しい。
「このすばらしいオレ様を見てくれ!」 が、一番になってしまうことって、多い。しかも、「ありがとうございます」と頭を下げながら、自分でそうしていると信じていながら、 「オレ様万歳」と言ってしまっていることに気が付かないでいる。
わたしも、そうだなあ。あらゆる場面で、「お客さん、見てくれてありがとう、ここまで来てくれてありがとう」ってまず思うことってなかった。 浅はかにも、ばれてないと思っていた。 ばれます。
長年修行した人だってばれてしまう位なのだから。 桂歌丸という落語家は、出てきた瞬間から舞台袖に消える瞬間まで、 一度も「オレ様素敵」というものがなかった。 「オレ様」が「素晴らしい」ことぐらい、よくよくわかっているはず。 そんなこと、いちいち主張しなくたってもういいんだ。
ところで、あの通訳をなさっていたはっぴのやけに似合う方は、どなただったんでしょう?
字幕翻訳に拍手を送るように促したのはなかなかの心意気でしたが、通訳の方に対する拍手がなかったのが、なぜ?と思いました。 彼が一番大変で、一番面白かったのに。 バイリンガルの人は、彼の的確で素晴らしい通訳は本当に賞賛に値するものだったとわかったはず。 それにしても、落語イン・フレンチは、翻訳が鍵を握っていると改めてわかった。 隣のフランス人は、結局一度も笑わずに帰っていった。斜め前のフランス人の若い3人組も、ぶすっとしたまま、完全に着いていっていなかった・・・
ことばを伝えること、気持ちを伝えること・・・考えることはいっぱいある。