円楽さん笑点引退関連ニュースを速報してくれた、友人・家族・その他の皆さん、どうもありがとうです。
外国で暮らしたことがない人、またはうちの父のパリスタージュ時代ように、手紙か国際電話しか日本とのコンタクト手段がなかったという経験のある人は、わたしが日本のニュースを知っていることにかなり驚くらしい。
大きい地震とか台風とかのニュースなんてラジオでもやるから、誰よりも先にフランス人の友達に「日本で地震だってよ!」とか言われたりするってのも、なんだか面白い。
先日台湾の方から、CORに仏文に関してのメールを頂いた。 同じアジア出身ながら、言語の違いもあって、本来なら個人的にはこんな交流などめったにない状況で、こんな風に共通の話題、共通の言語を使ってコンタクトをくれる人がいるということに、なんだかぐらりときた。
フラ語なんかやってる場合じゃないなー。英語だなぁやっぱり。 などと、現在製作中のいい加減な英語の課題を眺めながら、ためいき。
翻訳という仕事をやりたいと、落語を仏訳したときに思った。 誰もが考えるように、文学作品の日本語から仏語への変換は4、5年程度の訓練じゃ難しい。 だから、逆を考えるわけだけど、 日本は戦前から本当に一生懸命海外のものを取り入れて取り入れて、 今もう飽和状態に近いんだと思う。
しかも、著作権の問題で、勘違いの翻訳を頑固なまでに抱きかかえて、カチカチになっている。 そして、その邦訳をなめるように吟味して、言葉尻を議論している。 以前居た劇団でシェイクスピアをやるときには、いつもそれにうんざりした。
なにか、完全にずれたところで足の引っ掛け合いをしているような感じが拭えない。 確かに著作権は保護しなければならないけれど、翻訳に関するものは、別に考えるべきだと思う。どう考えても原文とは違うのでは、という訳が60年も70年もそのまま受け継がれるのは、作者にとってもありがた迷惑なだけだ。
一方で、勤勉家な日本人諸先生方が、もうあらゆるクラッシックなナンバーは訳し尽くしてしまって(その訳が言いか悪いかは別として)、訳す物がなくなっている、という状況。 日本は外国製品にもう飽和状態なのに、まだ「デザートは別腹」などと言いつつ、うろつきまわっている。
今、フランスに限って、回りを見回しても、日本製品ほどよくできたものはない。フランスで作られる服(オートクチュールは別として、普段着るものということ)、フランスで食べられるお菓子、フランスで流行っているもの、どれも、今日本で手に入るものと比べても雲泥の差があるわけではない。 もう、新しいもの、ではないんだもの。誰にでも手に入ってしまうもの、なんだもの。 フランス人は、気づいていない。けれど、無意識に色々と日本ではやっているものを真似しだしてはいる。
心の中では、まだ自分たちが一番だと思いながら。
日本人の大多数もまだ、フランスは真似すべきおしゃれが見つかり、真似すべきお菓子を習いに行き、真似すべきライフスタイルがある場所だと思っている。「フランス人のマダム」はすてきだと思っている。(素敵な人も、どこかにいると思うけど・・・)
知人より、この間の歌丸さんの公演がきっかけで、ある二つ目さんが海外公演に付いていく事になって、英語で落語をやるんだって、という話しを聞いた。 わたし個人の感想としては、 日本語以外の言葉で語られる落語は、気持ちが悪い。 (フランス語だったら、もっと気持ち悪いと思う) しゃべる言葉には、それに相応しい顔と態度がある。 発音が顔の造りを形成し、その造りだからその発音が可能なのだ。
わたし自身、フラ語を発音している時の顔は日本語を話しているときと全く違う。そうしなければ発音できないのだから、唇の筋肉も発達するし、顔だって変わる。 しかも、母国語でない言葉の発音の上手下手は、その人の聴覚の良さ、絶対音感があるかないかで決まってくるわけだから、何年やっても綺麗な発音ができない人がいれば、どこでどんな音を出しているかというメカニズムを把握できて、すぐに同じ音を出すことができる人だっている。 そういったことをすっ飛ばして無理してやったって、不自然さに負けて、気持ちが悪さが残ってしまう。
外国で、外国語で語る落語が、国内で日本語で語られるよりも「ステータス」が高いという、その風潮は、やっぱりこれだけお腹一杯の日本でも 未だに「海外上位志向」が根強いという象徴のような気がする。そんな落語を見るのは、ちょっと嫌だ。 海外口演に反対なのではなくて、むしろわたしはそういった海外口演の一つをでっちあげようとしているのだけれど、
「落語は、日本語を理解する人が、日本語で聴いて楽しいものです。」 ということを、海外で興業を行うときでも感じている必要があると思う。
その上で、他の言語を使う人に対して、どういったアプローチをしていくのかが、その会の良し悪しを決めるんじゃないかな。