Benda bilili !

土曜日:「ベンダ・ビリリ!」を見に行く。去年9月にピーター・バラカン氏の出前DJを見に行く道中、Kさんがナビ君に「最近なんか注目しているのとか、あるの?」と聞いた。 「うーん、『スタッフ・ベンダ・ビリリ』ってコンゴのグループ、やっと名前を覚えられたんだけど、コンサート行きたいんだよなぁ。松本かいわきか、と思ってんだけど、車で行くのはやっぱきついかな」 ベンダ・ビリリという妙ちくりんな響きをこの時初めて聞いたのだけれど、その数時間後にバラカン氏の口から同じ名が出たのにちょっと驚いた。その時映画の一部を見せて貰ったので、新潟での上映を楽しみにしていたのだ。 映画はとても良かった。特に、監督のルノー・バレとフロラン・ド・ラ・テュライの視点がコンゴに対する既存のイメージに凝り固まったものでなく、くそまじめなドキュメンタリー調でも悲劇調(予期せぬドラマは色々とあったにしろ)でもなかったのがいい。実際、彼らのインタビューの中でもその辺りを意識していたみたい (⇒Next.libération フランス語) あくまで淡々と、アーティストたち、路上暮らしの人々、「障害者施設」での暮らしを見つめる。確かに、彼らは「屈強の(コンゴ)魂」を持っている。 今回も整理券が出ていたみたいで、私たちの隣に座った女の子だけが持っていた(整理番号1番)。映画が始まる前も、終わった後も、興奮したような喜びではちきれそうな感じでCDやパンフレットを買っていた。ナビ君はしみじみ 「気合、入れて来たんだよ。俺もすごい気合入れて来たもん、今日。」 と言う。 (仏語日記部は「続きを読む」からどうぞ。眠いからミス一杯ありそうだ。) *フランス語的に見る「ベンダ・ビリリ!」 パパ・リッキーのみ(仏語ナレーションを抜かして)理解可能な仏語をしゃべっていて、後の人々の言葉や歌詞は単語単位で時々フランス語が聞こえるけれど、ほとんどわかりません。パパ・リッキーは割とゆっくり話すし、アフリカン・フランス語特有のなまりがそれ程きつくないのでディクテには丁度いいかもしれません。

Le samedi dernier : aller voir Benda bilili ! Dans le chemin d’aller voir le DJ Peter Barakan, en septembre dernier, K a demandé à mon copain : « Sinon, tu as CQFD (ceux qu’il faut découvrir) ? - Ben oui, c’est Staff Benda Bilili, un groupe congolais. J’ai à peine appris le nom par cœur. Vraiment je veux aller à l’un de leurs concerts, à Matsumoto ou à Iwaki, mais de toute façon c’est loin de chez moi. » C’était ma première occasion d’entendre parler le nom de Benda bilili. J’étais un peu étonnée quand ce nom a été prononcé de la bouche de M. Barakan quelques heures après. Il nous a montré une petite partie du film, depuis nous attendais Benda bilili ! avec patience. J’aime beaucoup le film. Ce qui me plaît, c’est surtout le regard des deux réalisateurs, Renaud Barret et Florent de La Tullaye : il n’était pas figé dans le stéréotype devant les Congolais, ni trop journalistique, ni trop dramatique (malgré quelques drames inattendus qui se déroulent dans le cours du film), ils filment les musiciens, les gens de la rue, leur vie au centre des handicapés, tels quels, le Staff tel quel : ils pensent des "nanas", ils chantent, dansent, et se bourrent. Ils gueulent contre des voyoux. Ils pensent de l'avenir des enfants de Kinshasa. Toujours il y a des potes. En effet, le Staff, ils sont « très très forts ». Une fille qui s’asseyait à côté de mon copain dans la salle du cinéma était la seule qui avait le ticket d’attente (ainsi, elle avait le numéro 1). Enthousiasmée et joyeuse, elle a acheté un CD (bande originale du film) et une brochure. En la regardant, il m'a dit avec le ton profond : « Elle est venue avec une grande attente. Et moi aussi. »

Vivement dimanche

朝、読売新聞の書評を開いたら、Hさんこと橋本一径さんの「指紋論」が載っている。元ナント番長の著作とあらばぜひ読まねばと、図書館に本のリクエストをした。できれば買ってください・・・とつっこまれそうです。「ドアーズ まぼろしの世界 When You're Strange」を観に行く。 前回のストーンズのような1日限定ではないのに整理券が出ていた。今回は当日券で上演直前に滑り込む。客席はレイ・マンザレクのもみあげのようにもっさりとしていた。一見すると、ジム・モリスンよりもヤバそうな瞳のレイは「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐のようだった。 メンバーは「天国と地獄の狭間にいる」ジム・モリスンの作り出すカオスに巻き込まれていたようでいて、その実彼を操る術を知っていた。ジムがドラッグや酒から抜けられなかったのはコントロールしようとする人々から逃れたかったからなのか。ジョニー・デップのナレーションは悪くない。 図書館に「ジム・モリスン詩集『神』『新しい創造物』」もリクエスト。同日に指紋についての本とLSDアルコールでキメキメだった人の詩集を頼んだので、ちょっぴり「ファンシーな」人だと思われているかもしれない。しかも丁度アンリ・ミショーを借りて返しそびれていたのだった。わたしがやったことあるのは、新大久保で求めた「合法」と注意書きのあるものだけです。

ヴァカンス

 最後の教室。

注文の多い料理店

エコールフランス語コミュニケーション教室はただいま夏休み中。 越後妻有 大地の祭り2010 夏に行って来ました。 一日目に松代の農舞台を中心に見て、二日目は朝、棚田に行って緑を満喫し、松之山まで足を伸ばし、帰り際に川西に寄る、計画を大幅に無視した一泊二日の旅でした。 緻密に計画を立てながらそれを忘れて、最終的には勘で動く乙女座O型(口癖は「ま、いっか」)と、綿密な計画を大まかに記憶しており、計画通りに進んでいないことに気づきながら面倒だから放っておく牡羊座B型が集まるとこうなる。 天気の加減もあって結果オーライ。(←適当) 山の中を歩きながら色々とアートを見つけて歩くのですが、大地の芸術祭期間ではないので、結構損傷が激しかったり、お休み中だったりするものもありました。 一日目に一番テンションが上がった「西洋料理店 山猫軒」に突入する前に雨が降り出したのですが・・・ 宮沢賢治の中では一番好きな「注文の多い料理店」。 お話の中のドアを実際に楽しめます。オチなしだけど。

面白かったのは、松之山にあるクリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンの「最後の教室」。 廃校になった校舎自体をひとつの「生き物」として、かつて存在していた証を見せてくれる大規模なインスタレーション。真っ暗な中に魂のように浮かぶ電球や、二階の理科室にある「心臓」(こだまして校舎の外まで聞こえてくる)も、霊安室のような白いカーテンと蛍光灯の部屋も、真っ黒な額が大小壁一面に散らばる部屋も、怪奇趣味と危ういところで一線を画しているバランスに引き込まれました。 一人だと怖くて途中で引き返して来そうですが・・・(ホラー苦手)。 「クリスチャン・ボルタンスキー 死者のモニュメント」(湯沢英彦 著)、ちらっと読んだのですが面白そうでした。どこかで見たような、と思っていたら、この本は水声社から出ていたのね。偶然にもSさんが「水声通信」を送って下さったところでした。 他に、光の館も素敵な建物でした。泊って夜に空を眺めながらボーっとしたいです。 都合3泊4日にして、半年の疲れをやっと解消。とどめにくじら汁なんかも頂いて、もう怖いものなしの33歳ラスト・サマーなのでした。 「ちょっくらリフレッシュして来ます」と生徒さん向けのお知らせに書いたら、3、4人から「先生、フランスに行くんですか?」と聞かれました。 フランス語の先生がフランスに行くんじゃ全然面白くないでしょ。

Que m'importe (私には〔どうでもよいのだ/何が重要なのか〕)

先日、たまたま家にあった「暮らしの手帖」を読むともなしにぱらぱらと捲っていたら、佐藤雅彦さんの連載「考えの整とん」に目が留まった。いつも「暮らしの手帖」には異色のページだよなぁと眺めていたのだけれど、書き出しが英会話の本についての話だったのでついつい引き込まれてしまった。 「いざという時に役立つ」類のその英会話学習書の最初の例文というのが、

『ものが二重に見えるんですよ。』

このフレーズが役に立つ「いざという時」は、ほぼ間違いなくなんらかの体調不良に陥り冷静ではない状態で、この言い回しを思い出す余裕などない時だろう。

または、3DTV専用メガネが不良品だったとか。競争率の激しい英会話学習書出版業界で、売れるためにオリジナリティを追求し過ぎた結果、このマニアックなフレーズに辿り着いてしまったのだろうか。

話はそこで終わらない。

二十数年後、著者はテレビをザッピング中、アメリカのTVドラマ「逃亡者」で主人公が「I'm seeing double.(ものが二重に見えるんです)」と言うシーンに遭遇し、「とうとう、この言葉に出会ってしまった。」と呆気にとられる。

佐藤氏はこのエピソードから、自身のひらめきやアイデアを日常生活に役立つ工夫や知識として読者に伝えようと「暮らしの手帖」に連載をしているけれど、実際それらには「汎用性」がない、つまり『ものが二重にみえるんですよ』というものばかりなのでは・・・と自問する。

普段フランス語の課題を作っている私にとって、この不安は常に付きまとう、他人事とは思えないものだ。

教科書に書いてあることは、とても非現実的に感じる。聞きなれない音と見慣れないアルファベットの羅列で学ぶのだから、リアリティが沸かないのは当たり前だ。フランス語に限らず、外国語のテキストは日々研究されているので日常的にどこかで耳にする会話や展開になっているものが次々出版される。それでも、やっぱり「遠い」感じがする。

ジョージやメアリーにとってはごく当たり前の会話でも、太郎と花子には微妙に遠い。

その空間を埋めるのが課題の役目だと思う。だから、等身大の自分でぶつかれるものでないと意味がない。

何度かここでも書いているのだけれど、「覚えられない時」というのを振り返ってみると、自分の中にその言葉やシチュエーションが「当たり前」になっていない、リアリティを持って存在していない時だ。

語学に限らず、仕事の仕方や人の名前、楽器の演奏などもそう。それを「腑に落ちる」状態にしてやるには、自ら行動するしかない。仕事なら自分で提案することで、人の名前はその人に話しかける、その人について他の人と話すなど。楽器の場合(私はピアノしか知らないけれど)そのつまづく動きに心が付いて行けていないのだから、自分が納得する感情を探してさまざまなパターンで演奏してみる。

語学の場合、自らの意思でその言葉や表現を使うことで「自分はこの言葉を知っている」という体験を作り出す。 これが記憶につながって行くのだと思う。

自分で考えを発信するというのは母国語の訓練ができていないと難しい。だからe-corの課題は、日本語で考えて面白い内容をフランス語で行うことが多い。

今、初級~中級のアトリエでは小さな詩を作る練習をしている。12ヶ月のうち好きな月をひとつ選びその月について書くのだが、「マッピング」という手法を使ってまずは一人で連想ゲームをして行く。 その月から感じる色を二つ、その月を一言で表す言葉一つ、その月の名前、の4つの「核」からそれぞれ連想をして行く。

1月なら「白」→「新鮮」→「泉」とか、「新しい」→「オープン」→「窓」などなど。連想できる言葉同士をつなげて行くと、マップが出来上がる。

生徒さんの例01
生徒さんの例01
生徒さんの例02
生徒さんの例02

たくさん言葉を連想したら、気に入った言葉を使って短い文章を作り、最終的に3行ほどの小さな詩が出来上がる。

「詩」と言われると、なんだか難しそうで文才がなければできなさそうなのだけれど、この方法を使うと初心者でも作ることができる。 実際、教室では次々と詩人が生まれているのでそのうちこちらでも紹介しようと思う。

こういった課題は学習者が集中して楽しめて、語彙も豊富になるし、ひとつの詩が完成した時の達成感は自信につながる。 柔軟な発想をしなければ連想はできないので、対人関係で相手の気持ちを考えたり、問題が起こった時の解決方法をかんがえたりするような普段の生活に応用することもできる。

エコエコと叫ばれすぎて、人生までできるだけ無駄なことをしない風潮になりつつある。 「遊び」のない「エコ人生」では、あまりにも味気ない。フランス語学習というと、それだけでもう汎用性がなさそうに見えるけれど、意味がないことをやることの意義は簡単には計り知れないものなのだ。

何十年後かに「逃亡者」のフランス語吹き替え版を見ることがないとは誰にも言い切れないのだから。 ちなみに、佐藤雅彦さんというのは、あの「だんご3兄弟」や「ポリンキー」「バザールでござーる」などのCMを作った人です。

「Dr.パルナソスの鏡」とカメラにんげんの恐怖

にいがた国際映画祭開幕日に「ネオ・ファンタジア」を見に行こうと楽しみにしていたのですが・・・ 色々あって結局「Dr.パルナソスの鏡」を見ることに。 評判を見ると賛否両論みたいでしたが、私は好きです。 上映時間が長かったけれど、全然退屈しなかった。 ヒース・レジャーが亡くなってしまって残念です。 彼の役「トニー」を完成させるためにジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが出てきて、改めて見るとやっぱりヒース・レジャーがいいな・・・と思ってしまう。騙されてるかもしれないけど、騙されたままでもいいや、と思わせる魅力がありました。 トム・ウェイツも憎めない感じがすてき。今日は仕事中にCDを聴いていました。

最近シネコンで映画を見ることが続いているのですが、どーうしても苦手なのが、あの本編が始まる直前に流れる「映画の撮影は法律で禁止されています」というやつ。顔がカメラの不気味な人間がぐにゃぐにゃ踊る、あれです。 今書いているだけでも鳥肌が立つ位、苦手です。こわいよぅ。 「カールじいさん」の時に初めてまともに見てしまって、半泣き。 今ではあれが流れると思うと映画が始まる前は緊張して手汗をかく位で、始まったらぎゅっと目をつぶって絶対に見ないようにして、終わるまでただ耐える。 恐怖心を抱かせることができるってことは効果がそれなりにあるものなんでしょうが、私は撮影をしたりしようと思っていないのでもう勘弁してください(涙)。 前に映画は一人で行くの楽しいって書いたけれど、シネコンは一人では行けないな・・・

ここ数日にものすごい勢いで仕事が増えてしまって、もうパーになりかけていました。 しかし、こうやって映画に行ったりしているってことはまだキャパがあるってことなんだと気づく。 いやいや、だからもっと何かできる、とか考えると方々から「もういい加減にしなさーい!」とお叱りが来そうなのでやめますが、大切なのは 「忙しくて仕事以外にやりたいことができない」わけではなく、ちゃんとやりたいこともやっている自分に気づくことなんです。

それにしても、今日もどくだみ先生に「過労」と言われました。私、先生より全然働いていないと思われますが、やっぱり過労なんでしょうかね・・・ 「一休み一休み」 ハイ・・・一休さん。