ゴマティ・シラ
サティヤ・サイババのマントラCDを買ったらおまけで付いてきたインドの化石。
「繁栄と健康」や「安全」のお守りなんだそうです。
生きている上で、他人の影響を受けないでいるということは無理な話で、程度に差はあれど絶えず何らかの「揺さぶり」があるわけです。それが心地よい時もあるけれど、邪魔になることもたくさんある。
誰かの言葉に発奮して何かを成し遂げられれば、それは「bon détonateur (よい起爆剤)」となる影響だし、誰かのネガティブな声につられて本来の姿が曇ってしまうことだってある。
言葉がすべてではないとはいえ、言葉が通じないがために起こる誤解や行き違いというのは、時に恐ろしいなと思った。
人と人がなんらかの関係を作る時、それはエゴとエゴのすり合わせという作業だとずっと思っていた。重なる部分を作るためにも、ちょっとは妥協しないといけないんじゃないか、それが大人の関係ってもんじゃないか。
・・・という考え方、そのものが「エゴ」だった、と気づく。
自分と違う考え方に対して、しなやかに立っていたくて、その場しのぎのテクニックを色々と試してきたけれど、どこかぎくしゃくして落ち着かない。
「それ、ちょっと違うでしょ!」と言うのは押し付けだし、
「いや、それもありだよね、だって人間はみんな感じ方違うし」と嘯いてみてもおなかの中のごろごろとしたものたちが「うそつけ」と大合唱している。偽善。
と、うじうじしていたら「放っておく」という言葉を貰った。すり合わせない、という選択。
一見無責任にも聞こえるけれど、今までの、今の私には最高に必要な言葉。
余計なところまで首を突っ込んで、むやみやたらに感情攻撃しようとするのは、先手を打って噛み付かないと自分がやられるかもしれないという恐れがあるからなんだろうなぁ。
好き・嫌い、善悪、モラルとか、個人的な価値判断がついつい感情に絡みついてしまう。けど、本来その二つは別のもので、相容れない考えにぶつかっても、一々それをしかめ面で蹴飛ばす必要はない。わかっている、わかっていたつもりだった。
自分に集中する、それは、静謐で美しい音のする「égocentrisme(エゴサントリズム)」だと教えてもらった。
傍にいる人は似た価値観の持ち主がいいのかもしれないけれど、時に、その似ていると思っていた人が、自分にはない視点から奏でる響に救われることもある。
えいきょう[―きやう] 0 【影響】(名)スル
影が形に従い、響きが声に応ずる意
関係が密接で、他の物事に力を及ぼして、変化や反応を起こさせること。
Yahoo!辞書 大辞林 より