転職志願

夜のニュースで、コメルス・エキタブル(「フェアー・トレード」:アジア・アフリカ・中南米などの「第三世界」と呼ばれる国のコーヒーやチョコレートなどの生産者に対して「第一世界」の関連産業がミニマムの商品価格を保障し、消費者が浮いた分を負担する商法、また活動する非政府団体のこと)から得た仕事で助かっているという人たちが、手作業や最低限のマシーンで汗水たらして縫ったり叩いたりかき回したり焼いたり詰めたりしているのを見ていると、書いたり読んだり考えたりして偉そうにしている自分が情けなくなる。

まぶしい。

文学は人間の生活に必要だなんて言ったりしているけれど、 実際何かあったとき、確実に生き残れるのは 言葉を操るひとではなく、 自分の手を使って仕事をし、生産している人たちだと思う。

お百姓になればよかった。

背水の陣

法として成り立つべく、ジャックさんが宣言した次の日、「CPE est mort」・・・「お前はもう死んでいる」 と言われる法律。

それが、CPE。

騒動も佳境に入って来ていて、あと一週間で試験が通常通り、ごり押しで可能か、それとも・・・という状況。

通常、ナント大学文学部は5月9日から期末試験が始まる。もしずれた場合、その後に控える追試にも影響が有り得る。もともと追試は6月中盤に設定されているので、一週間以上ずらしてしまうと7月に食い込む。 卒業する人たちにとって、6月末にディプロムを手にしていないのは致命的。 ところで、ナント大学は何としても日程通り試験を行わなければならない理由がひとつある。 財政問題。

どの学部でも1年生の人数は多く、一同を集めるだけの教室が大学の施設にはない。そこで、毎年ボージョワールにある大きな催し物開場を借りて、いくつかの試験を行うことになっている。 もし日程をずらせば莫大なキャンセル料が発生するわけで、そんな無駄遣いができるお財布をナント大学は持っているわけがないわけで。 ・・・ここまでが、大学側の事情。

さて、まり側の事情はシンプルです。 あたい宵越しの金はもってねぇんだ。江戸っ子気質なんだよ。 7月に入ると、飛行機の切符はべらぼうなんだ。 フランス人のごたごたのせいで、なんであっしが損をしなきゃなんねぇんでい、このこんこんちきめ! 飛行機の切符を予約してしまいました。 追試日程がずれたら、追試受けられません。だってナントにいないもん。 そんなわけで「追試ゼロ運動」を遂行するべく、自らを追い込み、人知を超えた力を発揮する策に出たわけです。 策士策におぼれるとか言うべからず。

やくそく。

とてもストレスフルでショッキングなことがあって、1トンの文鎮を飲み込んだまま黒い煙で燻されたような状態でした。 そんなとき、ホモダチのメールはマニフィックなまでにくだらなくて、 とても心休まります・・・。

わかったよ、ちゃんと骨と、骨以外の「愛用玩具」たちも拾うからね。 そんで、麦酒で洗ってあげる。 他のひげシスターズたちと肩組んでビールかけしながらひげダンス踊るよ。

ありがとう、oursちゃん。

ブロキュス上等。

なんだか、ら致監禁事件まで起こったじゃないですか、CPE(Contrat première embauche)反対のデモに便乗して。

ル・マンで元教師で失業中の男が高校生20人ぐらい人質に立てこもったらしい。けが人なしでついさっき(20時前)解決。うーん。。。

いつもはネットルモンドで済ませてたところですが、久しぶりにリベ紙を買ってしまいました。

ソルボンヌじゃブロック派VS勉強遅れてイライラ派がもめてるし、ポワティエは一足早く昨日すでに生徒たちが投票して大学を完全封鎖する決定。 地元の癖にナントの動きがイマイチわからない。というか、始まりもレンヌに刺激されて、って感触が強い(どのデモもだいたいそうだ)。

Nantes ma villeサイトを見る限りじゃ、今日新たに法学部でもブロキュスを決めたらしいから、少なくとも火曜日までは長引きそうな・・・。 しかし、街を歩くと、どうも不穏な空気、というかみんながイガイガしているのがわかる。まるでパリのメトロに乗っているときみたいに、無意識にかばんをギュッと自分に引き寄せてトラムに乗っている自分に気が付いた。 なんか、やだな。 こんなごわごわした時にパリ。 ていうか、みんな落語でも見てちょっと肝っ玉を落っ着けてくれよ、と言いたい。

さて、歌丸落語の夕べの前にどこに行くかといえば、決まっています。 パリに行ったら、パブロさんの所に行かないと気がすまない私。 一体何度マレのサレ館に行ったか、もう覚えていない。 ちょうどドラ・マールをフィーチャー中なので、「泣く女」をたくさん見てこよう。 「ピカソの女」たちの中では、ドラ・マールがモデルの絵で好きなものはあまりない。ただ、彼女は一度もピカソの前で泣いたりわめいたりしたことはなかったのに、ピカソは彼女の中に、今にも二つに千切れそうな切迫した何かを見出していた、というのが面白い。

私がドキュメンタリーの類の映画で一番すきなのが「Le mystère Picasso(ミステリアス・ピカソ)」。

これは、何度見てもゾクゾクする。 特殊なキャンパスを使って、ピカソの筆がそのまま画面に現れる。丁度、透明なパネルにピカソが描くのを反対側から眺めている感じ。 ピカソは下書きから描いて描いて描いて、魚が花になって人の顔になって最後は悪魔みたいなのになってその横で踊っているへんな人間がいる、 とかいうものや、

これが一体何になるのさ????というものが、えー?!というものに変化していく様子がたまらなくすごい。すご楽しい。

一番すごいのは、黒一色で一本の線から始まったものが、どんどん複雑に組み合っていくもの。最後にはDNAとか染色体とか、そういったもののような、それでいて、馬の頭が残っていてトロイの木馬みたいだったり、宇宙みたいなものに見えたり、あたまがぐるぐるしそうなものが出来上がる。 それが、映像編集で、出来上がったものを逆回しして最後にもとの一本の黒い線だけが残る。

ピカソは、たぶん、宇宙の仕組みを知っていたんじゃないかと思う。 ピカソだけじゃなくて、天才たちは多分みんなわかっちゃったんじゃないのかな、という気がする。モーツァルトを聞いていても、やっぱりこの人は何かやばいことを知っていたに違いないという気がする。

小さいときに、母につれられてデパートの催し物開場でやっていたピカソ展に行った。小さいスケッチばかりだったんだけど、ものすごい強烈で見ていて疲れて気分が悪くなってしまった。 今思えば、あれはミノタウロスのシリーズで、そうとう激しいやつだったんだと思う。小さい子がいきなりあれをみたら具合を悪くしてもおかしくない。

今、ピカソ美術館に行ってしまうのは、むしろそういうやばいエネルギーが不足しているとき。そして、建物自体がとても気持ちいい造りになっているから、ほーっと和んでしまえる。 今、たくさんたくさんのエネルギーが必要な時だ。 パブロさまの強力なやつを一発拝んでこよう。

わたしは誰?

風呂急須。ブロキュス。包囲。blocus

。Je sèche, je sèche! Ah, ça m'emmerde!

ナント大学生たちのデモは木曜日に本格的に始まった。 あっちの入り口もこっちの入り口も、机や椅子がバリケードに使われ、 メインの4つの入り口には生徒たちがガードマンのように張り付いている。

今回は「Retrait du Contrat Première Embauche」 ドヴィルパン政府の掲げたCPE (26歳以下のフランス人と20人以上の企業が対象の契約システム) 撤回を求めるデモ。

政府が若者の就職難と失業率を改善するために提案した政策は、 若者の感情をまたもや逆撫で。 ビラを読んでみたが、確かにあいまいな・・・という感じ。CPEも、このデモ自体も。 このCPEは、企業側からの一方的な解雇通告(一通の手紙)で簡単にクビにされてしまうというところが、若者を「俺たちゃ使い捨てかよ!」という気にさせるし、 失業問題で一番取りざたされている「妊娠や人種が理由での解雇」が このCPEでは起こらないという政府側の主張も、 CPEの法規を見てみると解雇については「Pas de motif éxigé」となっている。 つまり、企業側が表立って解雇の説明をせずにクビを言い渡すことができるってことは、「妊娠や人種が理由での解雇」は常にありうるってこと。 表明するか隠すかの違いでしかなくて、問題の解決にはなっていない。

Nantes ma ville.comを読んでみたけれど、そこで面白かったのが、中心になって動いているLe collectif STOP CPE 44のメンバー、ファビエンヌの言葉。

"...Jeunes femmes ne tombez pas enceinte avant 26 ans, sinon dehors. Ne refusez pas de servir le café à votre chef... C'est ça les effets du CPE. Mais c'est à nous d'imposer nos choix." 「26歳以下の女性社員は妊娠するな、それがいやなら働くのをやめろ。上司へのお茶汲みを断るな・・・これがCPEの言ってること。だけど、そういうことは私たち自身が選択することでしょ!?」

うーん・・・これって今の日本と変わらないよなぁ。お茶かコーヒーかってな違い。お茶汲みに反発する女子社員、お茶は入れてもらって当たり前の上司。 確かにフランスの中世から続いてきたいわゆる「騎士道精神」というやつ、 「男たるものはいかなるときも女のために働くべし」は、 細くかすかな声のようにはるかな時代を超えて、彼らの中に受け継がれているように思える。 この騎士道精神は、そこかしこで見られる。

慣れたつもりでいたが、買ったパンを取ろうとしたら、自動販売機のふたをすっと開けてくれた作業着の兄ちゃん(彼は隣の自販機の詰め替えをしていた)には、久しぶりにびっくりしてしまった、ワタクシ日本人。

そんな風に育ってきたフレンチお嬢様方が、「ちょっとコーヒー入れてくんない?」とか男の上司に言われたら、それはすさまじく「ムカ~ッ」とするのかもしれない。

確かに、ここは会社で家庭の延長じゃない。わたしゃあんたの奥さんでも母さんでもないんだから、そう偉そうに「お茶」とか言うな! という気持ちは、わからないでもないけれど、それってもう育ってきた背景と上司に左右されるよなあ・・・。 (多くの女性は、お茶を入れるのがイヤなんじゃなく、「いつもありがとう」という言葉が欲しいだけのような気がするけれど。)

うちはお茶は飲みたい人が入れるし、父が入れることが結構多い。 家族の誰が入れてもみんなの分は必ず用意される。 食後のフルーツなんかも父が用意することが多い。 (「りんご食べない?」「みかん食べようよ」と、一人では食べたくないらしい。) ま、彼の場合、自分が食べたい・飲みたいからというのが一番大きな理由でもあるけれど、料理人の性として「サービスそしてサービス」が行動の基盤という特殊なものもある。

もし上司が超カッコよくて仕事もできて優しくて独身で金持ちだったら、 上記のファビエンヌちゃんは果たしてどうするのかなあ。 やっぱり淹れるでしょう、カフェ。(私なら淹れます。もちろん!)

妊娠と仕事の関係はパラドックスだ。 女性が何歳になっても子供が産めるのであればいいけれど、 妊娠・出産は40歳を過ぎればチャンスもなくなるのだから、女性だってあせる。 けれど、一番フットワークが軽く、色々と吸収できるのは若いときだし、 ダンナの仕事が上手く行っていなければ、奥さんだって働かなくちゃ食べていけない。 ただ、そういう現実的なことよりも、 若い人たちがこの法令で一番ひっかかるのって、 「妊娠=あんたは役立たず」とか 「若い=失敗したら後がない」って思われることのような気もする。 色々と若者の反発を見ていると、精神的に焦って、 「俺をもっと愛してくれ!」「私がつらいってことわかってよ!」 と言っているようにしか見えない。

「だれか、大丈夫だと言ってくれ!」という叫び。

フランスではこういう反応がデモという「動」で表現され、 もうなんだかわからないけれど、動くことで不安を紛らわせるしかないという、結果を伴わない無駄な反抗として現れているような気がする。だから、車に火をつける。 日本では「静」としての反抗がじわじわと広がっている。 集団自殺とかニートとか、動くエネルギーが枯れてしまって、 何をしていいかもわからない。何で生きなくちゃならないのかもわからない。 どちらの表現方法でも、本音は「社会」や「国」なんてもうどうでもよくて、「自分がなんだかわらない」「自分がこのまま幸せじゃない」という不安が根にある。

私にも、そういう時期が長いことあったし、フランスにまで来なければ「自分」っていうのが実は「なんでもない人間」というシンプルな事実を理解することができなかった。

自分が特別でありたいという理想と、特別だと他人が認めてくれるまでの取り柄がないという事実の間のジレンマ。 今は、そういう焦燥感というのは、ない。 自分が何なのかなんていうのは、 自分の中に見つけることなどできないとわかったから。

「自分」は、相手の中にいる。 関わった人ひとりひとりの中に生まれる私に対する感情とか反発とか、癒しとか、そういうものが、わたしを創って行ってくれるから、 わたしは関わる人全てに創ってもらっている。 わたしは、だから、できることをやって、相手に伝える努力をして、考えて、動いて、感じて、交流して、私の中にもたくさんの人が生まれる。

自分は何かわからなくてイライラしていたとき、 実は自分にしか発想が向かなかった。 誰かのことを考えるときでさえ、 「相手は自分のことをどう捉えているか?」が問題だった。 「相手にとって好都合な何かを見返りを求めずにやる」=「payer(払う)」 ということができなくなったとき、ストレスは溜まり始め、自分のやりたいこともわからなくなり、自分も世界も急に霞がかかっちゃうなぁという気がする。

演劇学校に通っていたとき、現在もわたしが尊敬していい付き合いをしている親友が、役作りで悩んでいるわたしにたくさんのアドヴァイスをくれた。 演劇学校なんて同性なら一人一人がライバルだから、ほとんどの人がどうしたら自分がお客さんの印象に残るかということしか考えない。 そんな中、親友は、こうしたらまりが面白く目立つ、とか、こうした方がまりの見栄えがいいなどと言う。 わたしを目立たせても困らないほど、彼女自身に余裕があるのだなと思っていたけれど、彼女は 「だって、そうした方が芝居自体が上手く行くじゃん、そうでなきゃ面白くなんないもん。それは共演している私を助けることにもなるし」と当たり前のように言った。

本当は、芝居もこの世界も、それが当たり前なんだと思う。

自分が上手く流れるために相手を蹴落としても、絶対に、絶対に、上手くは行かない。道徳的なことじゃなく、物理的に上手く行かない。 もちろん、何をゴールに定めるかだと思う。 「ワタクシが美しく見えるか」なのか、 「芝居が面白くて、お客さんが満足する」なのか。 「あの俳優は演技がよかったけれど、芝居自体はツマラン」では、 そのときの個人の評価は良くても、その芝居を作ったチームの先はない。

自分に煮詰まったら、とにかく誰かのために何かを払ってみたら、 そこに自分が見えてくるもんじゃないかなあ、 結局幸せもそこにあるんじゃないかなあ。

Un amour oublié

わー!!!しまった・・・バレンタインすっかり忘れていた・・・。クリスマスにチョコ贈ったからいいか、などと。 男の人はやっぱりバレンタインを忘れられるとかなしいものなのだろうか?

ちなみに、日本のカップル用イベント(バレンタイン・クリスマス)の存在を思い出させてくれるのは、いつもホモ達だったりします。。。彼らは好きだもんなぁこういうイベントが。

忘れてたって言ったら「ちょっと、女捨ててるワヨッ!」と怒られそうだ。 うーん、ごめんなさい。

Je souhaite un soir DOUX de St Valentin pour tous les amoureux et toutes les amoureuses...

哀しい発言

よく、フランス人が日本人女性を褒めるために使う言葉がある。「肌が白くて綺麗だね。中国人と違って黄色くない。」

以前はそんなに気にしなかったけれど、今このナゾの褒め言葉が一番カンに触る。

フランスに来る前に、わたしは派遣で某携帯会社の販売をしていた。キャンギャルとして方々の会場を回ることから、電気屋さんでの契約の仕事まで色々だった。派遣ながら会社主催の研修や試験なども受けたし、3年ほどやって知識も付いてきたところだった。

ある日、仕事先の付近にあるキャバレーに勤めているインドネシア系の女性が携帯を買いにきた。外国人は通常色々と問題があるから、当時は審査も厳しいし、滞在証明なんかもあやふやだから上手く開通することはない。場所柄、893さんの多いところだったし、下手に関わるとあとでごねられて大変なことになったりするから、できるだけ相手にしないのが安全。 わたしは契約を頭から断った。

彼女はねばったけれど、わたしは冷たく「決まりだからだめなものはだめ」とはねつけた。彼女は恨めしそうな顔をしてわたしを見つめると帰っていった。 自分を「正しいことをした」と納得させていたけれど、彼女の目つきが忘れられなかった。ずっともやもやと気分が悪かった。 彼女は後日「パパ」らしき日本人のおっさんを連れてリベンジに来て、担当した同僚が無事開通させた。 そのときの彼女のはしゃいだ顔、私を徹底的に無視した様子に、なんとも言えない不快感を感じた。 彼女にではなくて、自分に。 わたしは、会社のために彼女を断ったんじゃない。 彼女がインドネシア人で、キャバレーに勤めていたから断ったんだ。 初めて、自分が人種差別をしていたんだと気づいた。

ここフランスで「中国人と違う」という言い方が褒め言葉として平気で使われる(4年の滞在で5人以上の人から言われたことがある)背景には、そういわれて喜んでいる日本人がいるってことだ。 少し前のわたしは、平気で喜んでいた。 肌が綺麗と褒めてくれるのはありがたい。

だけど、 「白は美しい」 「中国人じゃないからいい」 という根本思想が気に食わない。

「肌は白いけど、やっぱり笑ったら目がなくなっちゃうところが中国人と似ている」

とか言って褒めているつもりのフランス人に出くわすと、グーで殴り倒したくなったりもする。

「目は大きく丸い二重じゃないのは(自主規制)」

と言っているようなもんだ。 (だいたい、美人の中国人はみんな目が丸く大きい人が多い。日本人の方が全体的に歌舞伎顔というか、目がすっと細い人が多いと思うから、中国人が目が釣りあがっているっていう偏見の発想は古い)

確かに私は笑ったら一筆書きできる顔になります。だからなんだってんだ! この顔がアンタに迷惑かけたかってんだ! 久々に腹が立った。 最近めっきり腹の立つことがすくなくなったおだやかさんなのですが。 別に中国擁護派でもなければ人種差別反対運動で車を燃やしたりしている過激派というわけでもないのですが。

知らない若造に道を歩いていて「ニーハオ」とか言われるととび蹴りを入れたくなりますが、知り合いで、しかも友愛を感じていた人が「中国人と違って」ということを言ってくると、へこんでしまう。

海外に出て生活をすると、程度は人それぞれだけれど、誰もが外見の明らかな違いというものを意識すると思う。今までは当たり前だった自分の外見が、明らかに浮いている、という事実。目立つ積もりはなくても目立ってしまうし、だから余計ぎこちなくなったりして、それが相手にも伝わってお互いギクシャクしてしまうことだってある。 自分は同じ人間だし、言葉も理解しているし、しようと努力しているのに、そういう意向とはまったく関係のないところで「ガイジン」と淘汰されてしまうのは哀しい。

「ガイジン」なのに、結構やるじゃん。 「ガイジン」だから、ちょっと大目にみてやんなよ。

大抵の評価はこのどっちかになる。そうじゃなく、本当に平気で付き合える友達たちを、わたしは逆にすごいと尊敬してしまう。 逆の立場だったら、わたしはきっと彼らみたいに自然ではいられなかっただろう。 歯がゆさや哀しさがはじめてわかったから、今後どこにいようと、わたしは絶対に人種如何で誰かを避けたり無視したりはしない。

それが正義だからとか、人種差別はいけないとか、そういう一般の正悪の判断が根拠ではない。

差別をした経験があって、 差別をされた経験があって、 そのどちらでも、わたしは哀しかった。 だから、差別をしない。それがわたしだ、ということだ。 中国人の友達もいたから、彼らが多かれ少なかれアクがある人々だということも知っている。 先学期は中国映画を研究するオプションをとり、今学期はカフカと中国小説の比較をやって、少しずつ中国という国、そこに住む人々を部分的に知り始めた。(現代中国小説は面白い。仏語でしか読めないのが残念。) 日本が中国にルーツがあるから、やっぱり根本的なところで思想が似ていたりするから、読んでいて肌で理解ができることが、懐かしい友人にあったようでうれしかったりするし、 なにより、人間として、この地球に存在しているという否定の仕様がない共有感覚をいったん知ってしまえば、白いだの黄色いだのと言っている輩があほらしく見えてくる。

けれど、そういう言葉を聞くのは哀しい。 差別は哀しい。