You tell me that you've got everything you want
And your bird can sing
But you don't get me you don't get me
Ils sont extra. C'est ce que je peux te dire.
You tell me that you've got everything you want
And your bird can sing
But you don't get me you don't get me
Ils sont extra. C'est ce que je peux te dire.
影絵とかきりえとか版画が好き。
独特の暗さが美しくて、限られた表現の中から浮かび上がる人物がちょっとユーモラスで楽しい。
小さいとき、「ブレーメンの音楽隊」の影絵を見た記憶がある。 窓に動物たちががやがやと集まって、なぞのトーテムポールが出来上がる。
フランス時間午後8時、ふと見ると、白い壁にお日様の最後の輝きが見せた天然の影絵。
その約2,3分後、『Le couhcer du soleil』日没。
外国に住んでいると、こういう風景を見ることができる、ちょっとした『役得』。
ドビュッシーの『Image deuxième série(映像 第二集)』をかける。
メキシコに旅立つ君に。
自分でやりたいことを見つけて、それに向かって努力をしながら、 自分の生活を支えて、周りも支えて、周りからもたくさん支えてもらって、 そして飛び立つ。 実現できるきみはすごい。
新しい生活、どうぞ、楽しい毎日を喜びながら暮らしてください。 悲しいことも、つらいことも、さびしいことも、喜びながら受け取ってください。 すべての体験は、きみにだけ与えられたものだから、ひとつひとつかけがえないです。
そうして、ゆっくり心を休めて、今度は、そこに立っている自分をちょっと考えてみてください。『わたしがここにいようと思う理由』はなんなのかを。 そして、『そこにいる自分』を大切に思ってください。 それが根となって君をそこでしっかり君を支えてくれるはずです。
¡Que te vaya bien!
おまえの宝物のある場所に、おまえの心もある パウロ・コエーリョ 『アルケミスト』より
寂しいかどうかということ。 自分がさびしいかどうか、さびしがってはいないか、 ということにほんのちょっと敏感でいる。 そうすれば、本当にさびしいときに、気づいてあげられるから。
自分がさびしいと叫んでいると気づかずにいると、面倒な出来事がたくさん起こってくる。だけど、根本の原因がさびしさだとわかっていないから、 とんちんかんなケアをしようとしたり、現実を直視できなくなって、ますます深みにはまってしまう。
なにより、さびしい人はさびしい人を呼んでしまう。 けれど、さびしい人が何人いても、温かくはならない。
自分がさびしがっていたのだとわかるのは、いいことだ。 やっと、暖を求めて動くことができるようになるのだから。
自分がさびしいと知っている人は優しい。 温かく厳しい、そしてやさしい。 私は今、さびしいだろうか?
大変お世話になった、ナント番長Hさんが『デフィニティヴモン』の決意をされ、本日お別れ会。
しかし、目の前に座ったS氏のだじゃれしか記憶に残らない最後の晩餐になりました。 あと、Nくんのぬけ作先生。
なにはともあれ、どうぞ末永くお幸せに、そしてお気をつけて帰国されますよう。
今年の夏、帰国前に2日間連続して知り合いの結婚が決まった夢を見て、帰国したらそのうちの一人が『俺、結婚したんだわ』と言い、 こっちに戻ってきたら、もう一人であるHさんの未来も夢でずばり当てたわよ!という、プロディジューな才能を発揮している私。
ところで、昨日、お見合い相手に逃げられるという夢を見てしまったんですけど・・・。
今日はお昼から午後いっぱい友達とおしゃべりして、夜も笑って飲んで食べて、フラ語脳も日本語脳もフルに活性化された一日でした。
あーたのしかった。ありがとう。
洋裁のk先生は言った。
「あせったらだめよ、あせるとね、ずれちゃうから。ゆっくりでいいのよ。大丈夫、大丈夫。」
3歩進んで2歩下がっている私のワンピースのミシン目のことを言っているのではなく、 何をして生きていったらいいのか、 今できることはなんなのだろうか、 という話をしていた時のこと。
「ほめられたらね、余計なことを言う必要はないのよ。 ただ、ありがとうと思っていればいいの。」
今、親にも会社にも「人生のよき先輩」を見つけられないと言われる時代に、私はすばらしい師匠たちに恵まれている。
幸せで居るには、幸せを感じていればいい。
太極拳を始めた。
中華シネマやカフカと中国文学の比較で中国文学に少し親しんだお陰で出会った陰陽魚。
ひょんなところから必要なものは転がり、目の前に落ちてくる。
ちびだった時、風使いになりたかった。 そんなプロフェッションがあるかどうかわからないけど、 見えないものを動かすことに憧れた。
見えないけれど、確かな手ごたえをもって感じるもの。
実際に舞っている先生は、確かに空気を動かしている。 自然の力を貰って舞い、生まれた力はまた空気を動かし、自然に還る。
無我夢中で動きに着いて行くだけで終わった第一回だったけれど、確かに何かが私の中で息をし始めたような気がする。
私を稽古場まで連れて行ってくださったMさんはもう5年も続けている大先輩。
「太極拳って、型はあるけれど、日本舞踊とかバレエとか、他の武術みたいに厳格に『こうすべき』ってわけじゃないんだよね。だけど、最近思うのはね、そういうファジーな方が、本当は難しいんだよねぇ」
自分で感じ、考え、動くということ。 私はフランスで徹底的にそれを学ぶ機会が与えられているけれど、ぼんやりしていると、好きなことにさえ「反応する」だけで精一杯になっていたりする。
今したいことを探すのが大切だと思って生きてきたけれど、今できることを確認したとき、やっと自分の輪郭が見えてくるのかもしれないなあ。
何をするかではない。
どう答えるかでもない。
自分が何を感じているか、正直に、何を感じているのかに 光をあてる。
起こってしまった現在の中であなたがどう動くかよりも、まず どう在るか。
友人と共に 家族と共に 人々と共に 自然と共に この宇宙に浮かぶ地球と共に
たいせつな人と共に どう在るか。
"- Vous êtes catholique, monsieur?
- Non. - Vous êtes protestant ?
- Non. - Vous êtes quoi alors ? - ...."
「あなた、カトリック、お兄さん?」
「いいえ。」
「プロテスタント?」
「いいえ。」
「じゃああなた、なんなの?」
「・・・。」
うちのアパートの3階に住む中国系の若者と、一階に住む変わったおばさんとのやりとり。
パスカルのLes provinciales(レ・プロヴァンシァル)を読んでいる時と同じような、何ともいえない脱力感。
見上げた空は、ここ数日の梅雨模様を笑い飛ばすようなまぶしさだった。 夏だよ!夏だよ! もし、私が同じ様に、おばさんに 「じゃ、あなたなんなの?」と聞かれたら、 今日の空のように鮮やかに、 今日の風のようにしゃらしゃらと笑って、言おう。
"Je suis un être humain, qui habite sur cette terre sous ce ciel blue." 「わたしは人間です、この地球の、この青い空の下に住む人間です。」
敢えてこういうことを強調すると、かえってニュータイプの宇宙人かと疑われるかもしれないが。
カレンダーのバッテンは、毎日いっこ増えていく。
「たのしみに」
今、できることを考えて ちょっと未来のことも目をまぶしそうに細めながら眺めて いっぽ、いっぽ、いっぽ、いっぽ
「早よ帰って来なはれ」
ありがとう。 待っていてくれる人がいるって、心強い。
今日はお呼ばれ。 Mさん、Aさんと楽しい時間をすごしました。
Mさんどうもありがとう。 あの雪の絵、しんしんと心に降りつもる気がしました。 白色ってあったかいんだなって初めて思った。 日本に帰って何とか稼ぎ始めたら貰いに行きますから、 「予約済」を貼って置いてね(笑)。
Aさんの書く字を見てみたいなぁと思いました。 Aさんはどんな字を書くのかな。 良寛みたいな字なのかな。
人は、それぞれ何か光るものを抱えているなぁと思う。 そういう人の話を聞いたり顔を見たりするのは 本当に楽しい。 私の友人達もそれぞれみんなきらりとするものを持っている。 すぐそばの人も、離れた人たちも。 だから、みんな私の誇り。
昨日の夜からどうも調子が悪い。 寒気と頭痛。のども痛い。 これはヤバイ前兆、と、 母手作りのかりん酒にお湯をそそぐ。 蜂蜜にレモン汁をちょっぴりたらす。 ほっこり温まったらお布団へ。 寝ながら頭蓋骨のマッサージをする。 ものすごい痛み。 私の上半身はなんだか前に比べて筋肉質になったような気がする。 首や腕は、大学でも家でも常に私の頭と目玉を必死に支えてくれている。 毎日読むか書くかパソコンを打つか。 私も私の身体も 「もういやだよー」と泣いている。
そうだよね、ここ数年、オーバーワークだものね。 私の脳くんはもともとお勉強向きに出来ていないのに、 毎日お勉強ばかりを強いられているのだから。 しかもたった4年かそこらしか使っていない言葉で。 大学への往復の道で動かす身体も、 いつも本やノートでずっしりとしたかばんを抱えてよろよろと、 自由な動きとは程遠い。
Mさんと別れてからの帰り道、 イル・ド・ヴェルサイユに寄り道。 夜の7時半、日差しの合間を空はほんの少し夜の色を見せる。 木と土の匂いに身体が喜んでいるのがわかる。 竹やぶの凛とした空気。
Mさん、私は早朝歩く会を始めようと思います。
マクベスを一度も面白い芝居だと思ったことはなかった。
ハムレットやオフェリアは演じてもいいと思ったが、 マクベスに興味はなく、 ましてやマクベス夫人なんて断じて望まない。
ところが、どうもマクベスとは縁があるらしく、 去年、大学1年のracines culturellesの中で取り上げられたシェイクスピア作品はマクベス。 そして、今年2年で取った文学とシネマの題材は「マクベスの比較」。 オーソン・ウェルズの「Macbeth」と黒澤明の「蜘蛛巣城」。
最初にBritish Broadcasting Companyの「正統派」版を見たけれど、「あ、あんたがマクベスさんでっか・・・」とうなるような、 泣く子も黙る、ながー い顔をされた俳優さんだったんで、始まったとたんいきなりガッツを60パーセント奪われてしまいました・・・。
演じられている「マクベス」のつまらない理由は色々あるけど、 「マクベス」は夫婦の話のはずなのに、巷で演じられているものの多くはそういう風に見えないというのが一番大きい。 マクベスとマクベス夫人は一蓮托生でもなんでもなく、それぞれが勝手に狂って行くようで寂しい。
そして、常に引っかかるのがマクベス夫人。 このキャラクターは書かれているせりふをただ読んだだけでも変人なので、生の人間が演じると誰も近づけない人になってしまってちっとも情がわかない。こんなコワイ女が趣味なのか、マクベスは?と、マクベスにも情が薄くなってくる。
面長のマクベスは一人悩み、奥さんは一人叫び笑い不気味なテンションで突っ走り、観客としてはひどい顔のアクターばかりが揃い踏みなので、唯一何とか見栄えのするマクダフばかりを追いかけたくなる。 ブリティッシュ・ブロードキャスティング・カンパニーにはもうちょっとマシな顔の役者が居ないのだろうか。
オーソン・ウェルズは、決して「いい男」の顔ではない。
あれは、紙一重フェイスだ。貴人と奇人を紙一重で分かつマニアックな顔。天才は大体そういう顔をしている。
普通の人が自らを「いけてる」と表明するととたんにいけてなくなってしまうもんだけれど、天才はナルシストと相場が決まっていて、そのナルっぷりにはなぜか納得させられてしまう。 イケメンでないがウェルズのマクベスは妙な色気がある。 影の効果で、ひょっとしてこの男はかっこええのではないだろうかとうっかり思ってしまう。どうやったら自分がかっこよく映るか、知り尽くしているんだろう。10歳のときからの演劇キャリアで、自分の鼻の格好が納得いかずにメイクで研究してただけある。
ウェルズはインタビューで「シェイクスピア悲劇の主人公はみんな "salaud" (糞野郎)」だと楽しげに話す。
...C'est un homme détestable jusqu'à ce qu'il devienne roi, et, une fois couronné, il est fichu ; mais, dès qu'il est fichu, il devient un grand homme.
この男は王になるまで本当に嫌なやつなんだよ、で、冠を頂いたとたん、やつは終わってるからね。だけど、終わっちゃった瞬間、彼は偉大なる男になるんだ。
バザンとのインタビューより抜粋 1958年
言い得て妙なるマクベス像。
ウェルズのマクベスが、「偉大なる男」になる瞬間がある。 それは、思わず「あっ」と言ってしまう一瞬のクローズアップなんだけれど、それまで卑怯者の"salaud"であったマクベスが、ビルナムの森が動いたという通報を受けたとき、自ら「fichu(終わってる)」と悟ったのがわかる。 この男、全責任を取る気になったな、というのがはっきり伝わる。 だから「終わってる」けど「偉大」になれる。
自分の上司であったダンカン王、友人バンクォーを殺し、さらには女子供(マクダフ夫人とその子供)にまで手を出す鬼畜さ、それらの罪を人に擦り付け逃げられるだけ逃げ回るものの、自らの罪の意識につぶされるsalaudを極めるマクベスなんだけれど、その人がつぶやく
「あした、そしてまたあした、そしてまたあした・・・」
という声は耳にも心にも残る。 続きはまたあした。
夜のニュースで、コメルス・エキタブル(「フェアー・トレード」:アジア・アフリカ・中南米などの「第三世界」と呼ばれる国のコーヒーやチョコレートなどの生産者に対して「第一世界」の関連産業がミニマムの商品価格を保障し、消費者が浮いた分を負担する商法、また活動する非政府団体のこと)から得た仕事で助かっているという人たちが、手作業や最低限のマシーンで汗水たらして縫ったり叩いたりかき回したり焼いたり詰めたりしているのを見ていると、書いたり読んだり考えたりして偉そうにしている自分が情けなくなる。
まぶしい。
文学は人間の生活に必要だなんて言ったりしているけれど、 実際何かあったとき、確実に生き残れるのは 言葉を操るひとではなく、 自分の手を使って仕事をし、生産している人たちだと思う。
お百姓になればよかった。
法として成り立つべく、ジャックさんが宣言した次の日、「CPE est mort」・・・「お前はもう死んでいる」 と言われる法律。
それが、CPE。
騒動も佳境に入って来ていて、あと一週間で試験が通常通り、ごり押しで可能か、それとも・・・という状況。
通常、ナント大学文学部は5月9日から期末試験が始まる。もしずれた場合、その後に控える追試にも影響が有り得る。もともと追試は6月中盤に設定されているので、一週間以上ずらしてしまうと7月に食い込む。 卒業する人たちにとって、6月末にディプロムを手にしていないのは致命的。 ところで、ナント大学は何としても日程通り試験を行わなければならない理由がひとつある。 財政問題。
どの学部でも1年生の人数は多く、一同を集めるだけの教室が大学の施設にはない。そこで、毎年ボージョワールにある大きな催し物開場を借りて、いくつかの試験を行うことになっている。 もし日程をずらせば莫大なキャンセル料が発生するわけで、そんな無駄遣いができるお財布をナント大学は持っているわけがないわけで。 ・・・ここまでが、大学側の事情。
さて、まり側の事情はシンプルです。 あたい宵越しの金はもってねぇんだ。江戸っ子気質なんだよ。 7月に入ると、飛行機の切符はべらぼうなんだ。 フランス人のごたごたのせいで、なんであっしが損をしなきゃなんねぇんでい、このこんこんちきめ! 飛行機の切符を予約してしまいました。 追試日程がずれたら、追試受けられません。だってナントにいないもん。 そんなわけで「追試ゼロ運動」を遂行するべく、自らを追い込み、人知を超えた力を発揮する策に出たわけです。 策士策におぼれるとか言うべからず。
とてもストレスフルでショッキングなことがあって、1トンの文鎮を飲み込んだまま黒い煙で燻されたような状態でした。 そんなとき、ホモダチのメールはマニフィックなまでにくだらなくて、 とても心休まります・・・。
わかったよ、ちゃんと骨と、骨以外の「愛用玩具」たちも拾うからね。 そんで、麦酒で洗ってあげる。 他のひげシスターズたちと肩組んでビールかけしながらひげダンス踊るよ。
ありがとう、oursちゃん。
リンドバーグは実際にはこんなことは言わなかったらしい。「ここはどこですか?」または「トイレはどこですか?」が、最初の言葉だったとか。
さぶい・・・さぶかったです。パリ。
驚いたこと。
1年ぐらい行かない間に、デパートのアジア人の就業率が目に見えて増えていた。ボン・マルシェ、ラファイエット・プランタン三つとも行く用事があったんだけど、どこに行ってもいるいる。ラファイエットグルメなんか、3つのレジがアジア人だったし。
パリはやっぱり刺激があるけれど、ナントから出てくると疲れるだす。 すっかり田舎もんだすから。 どこのカフェに入ってもタバコもうもうで参った。特にこの季節、締め切った店内は灰色。 タバコはもう随分前にやめましたので、吸いたいと思うことはほとんどない(ものすごい緊張しているときを除く)。なので、タバコの煙は嫌い。
でも去年だかおととしだかに法律でレストラン・公共の建物等の室内での禁煙って制定されたんじゃなかったっけ・・・?ガイジンばっかりのパリにはあって無きが如し法律? 最近はもうすっかりパリの商売人たちは日本人と他の外人の区別がつくらしく、「コンニチワ」だの「ナンデ~」だのを連発するウェイターとかが客引きしていてうるさい。
レペットがいきなり格上げ。どこの靴売り場でもメインの場所に移されて女の子たちが群がる。 やっぱ、ケイト・モスかなー。でもあの黒のバレエシューズは随分前から愛用しているところを撮られているから、なぜ今頃みんなが真似しだしたのか不明。 あれはやっぱり素足にミニではかないと格好がつかない。特にタイツではいちゃったりすると、とたんに「白鳥の湖」状態になってしまいます(特に股間から白鳥の頭が伸びているチュチュをつけた志村けんを想像してしまいます)。 劇団にいたときにみんな稽古場ではレペットのバレエシューズだったことを思い出した。ダンスの稽古で親指部分が破れて飛び出たことも数知れず。なつかしい。
今回はソルボンヌがやばいのでそっち方面は行かなかった(というか、行く時間もなかった)。特にデモの影響はありませんでした。 しかし、今日のTF1の20h、ドヴィルパンの発言を聞く限りじゃ、明日も大学は閉まったままかも・・・ナント大学の学長さんはドヴィルパンとシラクにCPEを引っ込めてくれと頼む手紙を出したらしいですが。 そういうことは、フランス人に限ってないと思いたいのですが、学期末の試験がずれ込んだりするのは勘弁して欲しいところです。
なんだか、ら致監禁事件まで起こったじゃないですか、CPE(Contrat première embauche)反対のデモに便乗して。
ル・マンで元教師で失業中の男が高校生20人ぐらい人質に立てこもったらしい。けが人なしでついさっき(20時前)解決。うーん。。。
いつもはネットルモンドで済ませてたところですが、久しぶりにリベ紙を買ってしまいました。
ソルボンヌじゃブロック派VS勉強遅れてイライラ派がもめてるし、ポワティエは一足早く昨日すでに生徒たちが投票して大学を完全封鎖する決定。 地元の癖にナントの動きがイマイチわからない。というか、始まりもレンヌに刺激されて、って感触が強い(どのデモもだいたいそうだ)。
Nantes ma villeサイトを見る限りじゃ、今日新たに法学部でもブロキュスを決めたらしいから、少なくとも火曜日までは長引きそうな・・・。 しかし、街を歩くと、どうも不穏な空気、というかみんながイガイガしているのがわかる。まるでパリのメトロに乗っているときみたいに、無意識にかばんをギュッと自分に引き寄せてトラムに乗っている自分に気が付いた。 なんか、やだな。 こんなごわごわした時にパリ。 ていうか、みんな落語でも見てちょっと肝っ玉を落っ着けてくれよ、と言いたい。
さて、歌丸落語の夕べの前にどこに行くかといえば、決まっています。 パリに行ったら、パブロさんの所に行かないと気がすまない私。 一体何度マレのサレ館に行ったか、もう覚えていない。 ちょうどドラ・マールをフィーチャー中なので、「泣く女」をたくさん見てこよう。 「ピカソの女」たちの中では、ドラ・マールがモデルの絵で好きなものはあまりない。ただ、彼女は一度もピカソの前で泣いたりわめいたりしたことはなかったのに、ピカソは彼女の中に、今にも二つに千切れそうな切迫した何かを見出していた、というのが面白い。
私がドキュメンタリーの類の映画で一番すきなのが「Le mystère Picasso(ミステリアス・ピカソ)」。
これは、何度見てもゾクゾクする。 特殊なキャンパスを使って、ピカソの筆がそのまま画面に現れる。丁度、透明なパネルにピカソが描くのを反対側から眺めている感じ。 ピカソは下書きから描いて描いて描いて、魚が花になって人の顔になって最後は悪魔みたいなのになってその横で踊っているへんな人間がいる、 とかいうものや、
これが一体何になるのさ????というものが、えー?!というものに変化していく様子がたまらなくすごい。すご楽しい。
一番すごいのは、黒一色で一本の線から始まったものが、どんどん複雑に組み合っていくもの。最後にはDNAとか染色体とか、そういったもののような、それでいて、馬の頭が残っていてトロイの木馬みたいだったり、宇宙みたいなものに見えたり、あたまがぐるぐるしそうなものが出来上がる。 それが、映像編集で、出来上がったものを逆回しして最後にもとの一本の黒い線だけが残る。
ピカソは、たぶん、宇宙の仕組みを知っていたんじゃないかと思う。 ピカソだけじゃなくて、天才たちは多分みんなわかっちゃったんじゃないのかな、という気がする。モーツァルトを聞いていても、やっぱりこの人は何かやばいことを知っていたに違いないという気がする。
小さいときに、母につれられてデパートの催し物開場でやっていたピカソ展に行った。小さいスケッチばかりだったんだけど、ものすごい強烈で見ていて疲れて気分が悪くなってしまった。 今思えば、あれはミノタウロスのシリーズで、そうとう激しいやつだったんだと思う。小さい子がいきなりあれをみたら具合を悪くしてもおかしくない。
今、ピカソ美術館に行ってしまうのは、むしろそういうやばいエネルギーが不足しているとき。そして、建物自体がとても気持ちいい造りになっているから、ほーっと和んでしまえる。 今、たくさんたくさんのエネルギーが必要な時だ。 パブロさまの強力なやつを一発拝んでこよう。
風呂急須。ブロキュス。包囲。blocus
。Je sèche, je sèche! Ah, ça m'emmerde!
ナント大学生たちのデモは木曜日に本格的に始まった。 あっちの入り口もこっちの入り口も、机や椅子がバリケードに使われ、 メインの4つの入り口には生徒たちがガードマンのように張り付いている。
今回は「Retrait du Contrat Première Embauche」 ドヴィルパン政府の掲げたCPE (26歳以下のフランス人と20人以上の企業が対象の契約システム) 撤回を求めるデモ。
政府が若者の就職難と失業率を改善するために提案した政策は、 若者の感情をまたもや逆撫で。 ビラを読んでみたが、確かにあいまいな・・・という感じ。CPEも、このデモ自体も。 このCPEは、企業側からの一方的な解雇通告(一通の手紙)で簡単にクビにされてしまうというところが、若者を「俺たちゃ使い捨てかよ!」という気にさせるし、 失業問題で一番取りざたされている「妊娠や人種が理由での解雇」が このCPEでは起こらないという政府側の主張も、 CPEの法規を見てみると解雇については「Pas de motif éxigé」となっている。 つまり、企業側が表立って解雇の説明をせずにクビを言い渡すことができるってことは、「妊娠や人種が理由での解雇」は常にありうるってこと。 表明するか隠すかの違いでしかなくて、問題の解決にはなっていない。
Nantes ma ville.comを読んでみたけれど、そこで面白かったのが、中心になって動いているLe collectif STOP CPE 44のメンバー、ファビエンヌの言葉。
"...Jeunes femmes ne tombez pas enceinte avant 26 ans, sinon dehors. Ne refusez pas de servir le café à votre chef... C'est ça les effets du CPE. Mais c'est à nous d'imposer nos choix." 「26歳以下の女性社員は妊娠するな、それがいやなら働くのをやめろ。上司へのお茶汲みを断るな・・・これがCPEの言ってること。だけど、そういうことは私たち自身が選択することでしょ!?」
うーん・・・これって今の日本と変わらないよなぁ。お茶かコーヒーかってな違い。お茶汲みに反発する女子社員、お茶は入れてもらって当たり前の上司。 確かにフランスの中世から続いてきたいわゆる「騎士道精神」というやつ、 「男たるものはいかなるときも女のために働くべし」は、 細くかすかな声のようにはるかな時代を超えて、彼らの中に受け継がれているように思える。 この騎士道精神は、そこかしこで見られる。
慣れたつもりでいたが、買ったパンを取ろうとしたら、自動販売機のふたをすっと開けてくれた作業着の兄ちゃん(彼は隣の自販機の詰め替えをしていた)には、久しぶりにびっくりしてしまった、ワタクシ日本人。
そんな風に育ってきたフレンチお嬢様方が、「ちょっとコーヒー入れてくんない?」とか男の上司に言われたら、それはすさまじく「ムカ~ッ」とするのかもしれない。
確かに、ここは会社で家庭の延長じゃない。わたしゃあんたの奥さんでも母さんでもないんだから、そう偉そうに「お茶」とか言うな! という気持ちは、わからないでもないけれど、それってもう育ってきた背景と上司に左右されるよなあ・・・。 (多くの女性は、お茶を入れるのがイヤなんじゃなく、「いつもありがとう」という言葉が欲しいだけのような気がするけれど。)
うちはお茶は飲みたい人が入れるし、父が入れることが結構多い。 家族の誰が入れてもみんなの分は必ず用意される。 食後のフルーツなんかも父が用意することが多い。 (「りんご食べない?」「みかん食べようよ」と、一人では食べたくないらしい。) ま、彼の場合、自分が食べたい・飲みたいからというのが一番大きな理由でもあるけれど、料理人の性として「サービスそしてサービス」が行動の基盤という特殊なものもある。
もし上司が超カッコよくて仕事もできて優しくて独身で金持ちだったら、 上記のファビエンヌちゃんは果たしてどうするのかなあ。 やっぱり淹れるでしょう、カフェ。(私なら淹れます。もちろん!)
妊娠と仕事の関係はパラドックスだ。 女性が何歳になっても子供が産めるのであればいいけれど、 妊娠・出産は40歳を過ぎればチャンスもなくなるのだから、女性だってあせる。 けれど、一番フットワークが軽く、色々と吸収できるのは若いときだし、 ダンナの仕事が上手く行っていなければ、奥さんだって働かなくちゃ食べていけない。 ただ、そういう現実的なことよりも、 若い人たちがこの法令で一番ひっかかるのって、 「妊娠=あんたは役立たず」とか 「若い=失敗したら後がない」って思われることのような気もする。 色々と若者の反発を見ていると、精神的に焦って、 「俺をもっと愛してくれ!」「私がつらいってことわかってよ!」 と言っているようにしか見えない。
「だれか、大丈夫だと言ってくれ!」という叫び。
フランスではこういう反応がデモという「動」で表現され、 もうなんだかわからないけれど、動くことで不安を紛らわせるしかないという、結果を伴わない無駄な反抗として現れているような気がする。だから、車に火をつける。 日本では「静」としての反抗がじわじわと広がっている。 集団自殺とかニートとか、動くエネルギーが枯れてしまって、 何をしていいかもわからない。何で生きなくちゃならないのかもわからない。 どちらの表現方法でも、本音は「社会」や「国」なんてもうどうでもよくて、「自分がなんだかわらない」「自分がこのまま幸せじゃない」という不安が根にある。
私にも、そういう時期が長いことあったし、フランスにまで来なければ「自分」っていうのが実は「なんでもない人間」というシンプルな事実を理解することができなかった。
自分が特別でありたいという理想と、特別だと他人が認めてくれるまでの取り柄がないという事実の間のジレンマ。 今は、そういう焦燥感というのは、ない。 自分が何なのかなんていうのは、 自分の中に見つけることなどできないとわかったから。
「自分」は、相手の中にいる。 関わった人ひとりひとりの中に生まれる私に対する感情とか反発とか、癒しとか、そういうものが、わたしを創って行ってくれるから、 わたしは関わる人全てに創ってもらっている。 わたしは、だから、できることをやって、相手に伝える努力をして、考えて、動いて、感じて、交流して、私の中にもたくさんの人が生まれる。
自分は何かわからなくてイライラしていたとき、 実は自分にしか発想が向かなかった。 誰かのことを考えるときでさえ、 「相手は自分のことをどう捉えているか?」が問題だった。 「相手にとって好都合な何かを見返りを求めずにやる」=「payer(払う)」 ということができなくなったとき、ストレスは溜まり始め、自分のやりたいこともわからなくなり、自分も世界も急に霞がかかっちゃうなぁという気がする。
演劇学校に通っていたとき、現在もわたしが尊敬していい付き合いをしている親友が、役作りで悩んでいるわたしにたくさんのアドヴァイスをくれた。 演劇学校なんて同性なら一人一人がライバルだから、ほとんどの人がどうしたら自分がお客さんの印象に残るかということしか考えない。 そんな中、親友は、こうしたらまりが面白く目立つ、とか、こうした方がまりの見栄えがいいなどと言う。 わたしを目立たせても困らないほど、彼女自身に余裕があるのだなと思っていたけれど、彼女は 「だって、そうした方が芝居自体が上手く行くじゃん、そうでなきゃ面白くなんないもん。それは共演している私を助けることにもなるし」と当たり前のように言った。
本当は、芝居もこの世界も、それが当たり前なんだと思う。
自分が上手く流れるために相手を蹴落としても、絶対に、絶対に、上手くは行かない。道徳的なことじゃなく、物理的に上手く行かない。 もちろん、何をゴールに定めるかだと思う。 「ワタクシが美しく見えるか」なのか、 「芝居が面白くて、お客さんが満足する」なのか。 「あの俳優は演技がよかったけれど、芝居自体はツマラン」では、 そのときの個人の評価は良くても、その芝居を作ったチームの先はない。
自分に煮詰まったら、とにかく誰かのために何かを払ってみたら、 そこに自分が見えてくるもんじゃないかなあ、 結局幸せもそこにあるんじゃないかなあ。
わー!!!しまった・・・バレンタインすっかり忘れていた・・・。クリスマスにチョコ贈ったからいいか、などと。 男の人はやっぱりバレンタインを忘れられるとかなしいものなのだろうか?
ちなみに、日本のカップル用イベント(バレンタイン・クリスマス)の存在を思い出させてくれるのは、いつもホモ達だったりします。。。彼らは好きだもんなぁこういうイベントが。
忘れてたって言ったら「ちょっと、女捨ててるワヨッ!」と怒られそうだ。 うーん、ごめんなさい。
Je souhaite un soir DOUX de St Valentin pour tous les amoureux et toutes les amoureuses...
よく、フランス人が日本人女性を褒めるために使う言葉がある。「肌が白くて綺麗だね。中国人と違って黄色くない。」
以前はそんなに気にしなかったけれど、今このナゾの褒め言葉が一番カンに触る。
フランスに来る前に、わたしは派遣で某携帯会社の販売をしていた。キャンギャルとして方々の会場を回ることから、電気屋さんでの契約の仕事まで色々だった。派遣ながら会社主催の研修や試験なども受けたし、3年ほどやって知識も付いてきたところだった。
ある日、仕事先の付近にあるキャバレーに勤めているインドネシア系の女性が携帯を買いにきた。外国人は通常色々と問題があるから、当時は審査も厳しいし、滞在証明なんかもあやふやだから上手く開通することはない。場所柄、893さんの多いところだったし、下手に関わるとあとでごねられて大変なことになったりするから、できるだけ相手にしないのが安全。 わたしは契約を頭から断った。
彼女はねばったけれど、わたしは冷たく「決まりだからだめなものはだめ」とはねつけた。彼女は恨めしそうな顔をしてわたしを見つめると帰っていった。 自分を「正しいことをした」と納得させていたけれど、彼女の目つきが忘れられなかった。ずっともやもやと気分が悪かった。 彼女は後日「パパ」らしき日本人のおっさんを連れてリベンジに来て、担当した同僚が無事開通させた。 そのときの彼女のはしゃいだ顔、私を徹底的に無視した様子に、なんとも言えない不快感を感じた。 彼女にではなくて、自分に。 わたしは、会社のために彼女を断ったんじゃない。 彼女がインドネシア人で、キャバレーに勤めていたから断ったんだ。 初めて、自分が人種差別をしていたんだと気づいた。
ここフランスで「中国人と違う」という言い方が褒め言葉として平気で使われる(4年の滞在で5人以上の人から言われたことがある)背景には、そういわれて喜んでいる日本人がいるってことだ。 少し前のわたしは、平気で喜んでいた。 肌が綺麗と褒めてくれるのはありがたい。
だけど、 「白は美しい」 「中国人じゃないからいい」 という根本思想が気に食わない。
「肌は白いけど、やっぱり笑ったら目がなくなっちゃうところが中国人と似ている」
とか言って褒めているつもりのフランス人に出くわすと、グーで殴り倒したくなったりもする。
「目は大きく丸い二重じゃないのは(自主規制)」
と言っているようなもんだ。 (だいたい、美人の中国人はみんな目が丸く大きい人が多い。日本人の方が全体的に歌舞伎顔というか、目がすっと細い人が多いと思うから、中国人が目が釣りあがっているっていう偏見の発想は古い)
確かに私は笑ったら一筆書きできる顔になります。だからなんだってんだ! この顔がアンタに迷惑かけたかってんだ! 久々に腹が立った。 最近めっきり腹の立つことがすくなくなったおだやかさんなのですが。 別に中国擁護派でもなければ人種差別反対運動で車を燃やしたりしている過激派というわけでもないのですが。
知らない若造に道を歩いていて「ニーハオ」とか言われるととび蹴りを入れたくなりますが、知り合いで、しかも友愛を感じていた人が「中国人と違って」ということを言ってくると、へこんでしまう。
海外に出て生活をすると、程度は人それぞれだけれど、誰もが外見の明らかな違いというものを意識すると思う。今までは当たり前だった自分の外見が、明らかに浮いている、という事実。目立つ積もりはなくても目立ってしまうし、だから余計ぎこちなくなったりして、それが相手にも伝わってお互いギクシャクしてしまうことだってある。 自分は同じ人間だし、言葉も理解しているし、しようと努力しているのに、そういう意向とはまったく関係のないところで「ガイジン」と淘汰されてしまうのは哀しい。
「ガイジン」なのに、結構やるじゃん。 「ガイジン」だから、ちょっと大目にみてやんなよ。
大抵の評価はこのどっちかになる。そうじゃなく、本当に平気で付き合える友達たちを、わたしは逆にすごいと尊敬してしまう。 逆の立場だったら、わたしはきっと彼らみたいに自然ではいられなかっただろう。 歯がゆさや哀しさがはじめてわかったから、今後どこにいようと、わたしは絶対に人種如何で誰かを避けたり無視したりはしない。
それが正義だからとか、人種差別はいけないとか、そういう一般の正悪の判断が根拠ではない。
差別をした経験があって、 差別をされた経験があって、 そのどちらでも、わたしは哀しかった。 だから、差別をしない。それがわたしだ、ということだ。 中国人の友達もいたから、彼らが多かれ少なかれアクがある人々だということも知っている。 先学期は中国映画を研究するオプションをとり、今学期はカフカと中国小説の比較をやって、少しずつ中国という国、そこに住む人々を部分的に知り始めた。(現代中国小説は面白い。仏語でしか読めないのが残念。) 日本が中国にルーツがあるから、やっぱり根本的なところで思想が似ていたりするから、読んでいて肌で理解ができることが、懐かしい友人にあったようでうれしかったりするし、 なにより、人間として、この地球に存在しているという否定の仕様がない共有感覚をいったん知ってしまえば、白いだの黄色いだのと言っている輩があほらしく見えてくる。
けれど、そういう言葉を聞くのは哀しい。 差別は哀しい。