よく、フランス人が日本人女性を褒めるために使う言葉がある。「肌が白くて綺麗だね。中国人と違って黄色くない。」
以前はそんなに気にしなかったけれど、今このナゾの褒め言葉が一番カンに触る。
フランスに来る前に、わたしは派遣で某携帯会社の販売をしていた。キャンギャルとして方々の会場を回ることから、電気屋さんでの契約の仕事まで色々だった。派遣ながら会社主催の研修や試験なども受けたし、3年ほどやって知識も付いてきたところだった。
ある日、仕事先の付近にあるキャバレーに勤めているインドネシア系の女性が携帯を買いにきた。外国人は通常色々と問題があるから、当時は審査も厳しいし、滞在証明なんかもあやふやだから上手く開通することはない。場所柄、893さんの多いところだったし、下手に関わるとあとでごねられて大変なことになったりするから、できるだけ相手にしないのが安全。 わたしは契約を頭から断った。
彼女はねばったけれど、わたしは冷たく「決まりだからだめなものはだめ」とはねつけた。彼女は恨めしそうな顔をしてわたしを見つめると帰っていった。 自分を「正しいことをした」と納得させていたけれど、彼女の目つきが忘れられなかった。ずっともやもやと気分が悪かった。 彼女は後日「パパ」らしき日本人のおっさんを連れてリベンジに来て、担当した同僚が無事開通させた。 そのときの彼女のはしゃいだ顔、私を徹底的に無視した様子に、なんとも言えない不快感を感じた。 彼女にではなくて、自分に。 わたしは、会社のために彼女を断ったんじゃない。 彼女がインドネシア人で、キャバレーに勤めていたから断ったんだ。 初めて、自分が人種差別をしていたんだと気づいた。
ここフランスで「中国人と違う」という言い方が褒め言葉として平気で使われる(4年の滞在で5人以上の人から言われたことがある)背景には、そういわれて喜んでいる日本人がいるってことだ。 少し前のわたしは、平気で喜んでいた。 肌が綺麗と褒めてくれるのはありがたい。
だけど、 「白は美しい」 「中国人じゃないからいい」 という根本思想が気に食わない。
「肌は白いけど、やっぱり笑ったら目がなくなっちゃうところが中国人と似ている」
とか言って褒めているつもりのフランス人に出くわすと、グーで殴り倒したくなったりもする。
「目は大きく丸い二重じゃないのは(自主規制)」
と言っているようなもんだ。 (だいたい、美人の中国人はみんな目が丸く大きい人が多い。日本人の方が全体的に歌舞伎顔というか、目がすっと細い人が多いと思うから、中国人が目が釣りあがっているっていう偏見の発想は古い)
確かに私は笑ったら一筆書きできる顔になります。だからなんだってんだ! この顔がアンタに迷惑かけたかってんだ! 久々に腹が立った。 最近めっきり腹の立つことがすくなくなったおだやかさんなのですが。 別に中国擁護派でもなければ人種差別反対運動で車を燃やしたりしている過激派というわけでもないのですが。
知らない若造に道を歩いていて「ニーハオ」とか言われるととび蹴りを入れたくなりますが、知り合いで、しかも友愛を感じていた人が「中国人と違って」ということを言ってくると、へこんでしまう。
海外に出て生活をすると、程度は人それぞれだけれど、誰もが外見の明らかな違いというものを意識すると思う。今までは当たり前だった自分の外見が、明らかに浮いている、という事実。目立つ積もりはなくても目立ってしまうし、だから余計ぎこちなくなったりして、それが相手にも伝わってお互いギクシャクしてしまうことだってある。 自分は同じ人間だし、言葉も理解しているし、しようと努力しているのに、そういう意向とはまったく関係のないところで「ガイジン」と淘汰されてしまうのは哀しい。
「ガイジン」なのに、結構やるじゃん。 「ガイジン」だから、ちょっと大目にみてやんなよ。
大抵の評価はこのどっちかになる。そうじゃなく、本当に平気で付き合える友達たちを、わたしは逆にすごいと尊敬してしまう。 逆の立場だったら、わたしはきっと彼らみたいに自然ではいられなかっただろう。 歯がゆさや哀しさがはじめてわかったから、今後どこにいようと、わたしは絶対に人種如何で誰かを避けたり無視したりはしない。
それが正義だからとか、人種差別はいけないとか、そういう一般の正悪の判断が根拠ではない。
差別をした経験があって、 差別をされた経験があって、 そのどちらでも、わたしは哀しかった。 だから、差別をしない。それがわたしだ、ということだ。 中国人の友達もいたから、彼らが多かれ少なかれアクがある人々だということも知っている。 先学期は中国映画を研究するオプションをとり、今学期はカフカと中国小説の比較をやって、少しずつ中国という国、そこに住む人々を部分的に知り始めた。(現代中国小説は面白い。仏語でしか読めないのが残念。) 日本が中国にルーツがあるから、やっぱり根本的なところで思想が似ていたりするから、読んでいて肌で理解ができることが、懐かしい友人にあったようでうれしかったりするし、 なにより、人間として、この地球に存在しているという否定の仕様がない共有感覚をいったん知ってしまえば、白いだの黄色いだのと言っている輩があほらしく見えてくる。
けれど、そういう言葉を聞くのは哀しい。 差別は哀しい。