春宵一刻値千金

たそがれ時
たそがれ時

夕暮れと夜明けが好きだ。

あの刻々とじんわりと空の色が変化していくのを見ていると、地球って宇宙の一部なんだなあと実感する。

あと一ヶ月半ほどで夏時間に戻るフランス。今の時期の太陽の動きは、日本の春のものに近いような気がする。 つまり、「夕方」がある。 夏時間になってしまうと、いつまでたっても日が暮れず、夜の9時半ごろにこの夕暮れ的な空をほんのわずかばかり見せて日は落ちる。時間的には夕方とはいえない。

日本語を教えていたとき、「夕方って何?」と聞かれて、そういえば、夕方にジャストフィットなフラ語ってないなぁと気がついた。夜の7時くらいまでは、平気でaprès-midi(午後)とかfin d'après-midi(午後の終わりごろ)とか言うから、夕方という時間帯の感覚がないのかもしれない。

夕暮れを示すフラ語はどれも好き。

crépuscule

entre chien et loup

la nuit tombante

crépuscule は ラテン語のcrepusculus(疑わしいという意味)から来ていて、夜明けの薄暗さを表すこともあります。 entre chien et loupは、そのまま、「犬と狼の間」。 la nuit tombanteも、「夜が落ちてくる」状態。

わたしは木も山も日本のものが好き。 でもヨーロッパの青空だけは日本では決して見られない美しさを持っていると思う。アイルランドの空にはため息が出た。 この空を描きたくなるだろうな、だからたくさんの画家が生まれたんだろうな、と空を見上げる度いつも思う。

ほんのり夕暮れを感じるこのごろ、まだ寒いけれど、わたしの芯は 春をもう感じている。

LE POURQUOI

「なぜ」がないと、弱い。話をするにも、 話を聞くにも、 書くのも、 行動するのも、 理解をするためにも、 「なぜ」は必要。 ここのところ、ずっとひっかかっていたある人の言葉 : 「なぜ、僕のことがいいとみんなが言うのか、わからない。」 彼は、プロの「表現者」。 つまり「彼はいい」とか「彼はよくない」とか、常に、あからさまに人から評価されるシチュエーションにいる。 彼は決して自惚れの境地で調子をこいてこんなせりふを口にしたわけではない。本当にわからずに、心の底から絞り出た疑問のようだった。 初めはその言葉をどう捉えていいかわからなかった。 わたしが彼を「いい」と思えないわけではない。 なのに「これだ!」という答えがない。「好きな理由」というのが、何を言っても通り一遍の薄っぺらなものに聞こえて、言えば言うほど彼のことを貶めていくような、よくわからない悪循環に陥った。 何をどんな風に言ったって、彼は納得しないんだと気づく。でもまてよ、その前に、この質問はするべきものなのかな? 例えば、好きな人に大決心して、面と向かって告白したとします。 相手に「なんで?なんで僕(または私)なの?」と聞かれたら、 「いや、それはその、つまり・・・や、やさしいし・・・」 と、急に言葉がはっきりしなくなったりしないでしょうか。 すきすきすきすき!というピンク色のスパイラルを切り裂く青い「なんで?」。 これは、しちゃいけない質問で、答えちゃいけない質問なんじゃないのか?   フラ語で「ジュテーム(きみをあいしてる)」と言うけれど、 これは真剣な愛の告白の時のみの呪文で、形容する余計なものをつけてはならない。 ① Je t'aime.  私はきみを愛しています。  ② Je t'aime beaucoup.  私はきみをとても好きです。    一見「とても」をつけたほうが熱意が伝わりそうだけれど、 ①は恋愛対象 ②は友達でいましょう なぜかという理由を恩師K氏(フランス人)に聞いたところ、 「愛は本来無限であるべきものという観念がある。形容するものをつけると、愛に一定の限界を作ってしまうことになるから、自分の愛する気持ちも限定されてしまう。」 浮いた噂のなさそうなおっさんから、こういう熱い説明を聞くとちょっと胸がじぃんとしたものでした。 Je ferme la parenthèse.(「カッコを閉じます」大学の先生たちは「もとい」という意味でよくこう言う。) なんで彼はこんな質問をするのだろう。 他の「プロフェッショナル」と言われるひとは、こういうことを考えたりするのだろうか? 「なぜ人は自分をいいというのか?」は、逆に言えば、 「自分は人に何をいいと言わせるのか?」つまり、 「自分は人(お客さん)に、何を提供するのか?」 そうか、彼は、自分のアイデンティティを探していたんだ。 それは彼にしか見つけられない。他の人がそれに色をつけていくことはできる。けれど、色をつけるべきものがなければ、いくら絵の具をたくさん持っていてもどうしようもない。 だけど、それを一緒に探していくことはできるよなあ。 わたしはどうだろう?わたしは、わたしのやりたいことを通して一体何を人に提供するのだろうか・・・。 主語を自分に置き換えると、他人事も自分の事になる。 「なぜ」が問える時、相手も自分も一緒に深くなって行く。

Adieu

久しぶりに、会った。いつものように、わたしに色々と質問する。 いつものように、壁に背中をもたれて、 手を後ろにまわして。 相変わらず忙しそうだった。 「じゃあ」と、今日はわたしから言った。 一度も言えなかった、「じゃあ」。 いつも彼が切り出す「じゃあ」に、ずたずたに切り裂かれるような気がしていた。 「A la prochaine fois,(またね)」 ふと、思いも寄らない言葉がするりと出た。 「...ou plus jamais(...それか、もうこれが最後かもね)」 彼は、ちょっと目を丸くして、それからにやりとすると、 「じゃ、Adieu(アデュウ)だね」 と、言った。 「うん、Adieu(アデュウ)。」 そうか、アデュウという言葉は、「神の元へ」という言葉だったんだ、だから、もう二度と会わないときに言うんだと、初めて気がついた。 これからも、彼とは会うかもしれないけれど、 わたしの想いは、Adieuだった。 まるでわたしの意識を裏切って細胞から出たような言葉だった。 わたしの身体が、区切りを欲していたんだ。 これでいい。 これで、いい。