ドはドリフのド

久しぶりに会ったアトランティック・ジャポン協会会長氏(フランス人)が、相変わらず流暢な日本語で、

「ドリフ(のDVD)買っちゃったよ!ドリフ!超面白いよ!まりにも貸すから!」

彼のような形で日本を愛してくれるフランス人が今後増加することを、切に所望する次第であります。 ドリフDVD3巻セット・・・私も欲しい・・・。

かつてちびだった時、世間のたのきんトリオブームをよそに、わたしは「結婚するなら志村けんがいい」と心に誓っていたことを思い出しました。 ナントでバスターキートンの映画をやっていると、シムケンを思ってしまう今日この頃。

ヒゲとオヤジとお前と俺と

日本の大学から仏文が消えつつあるらしいですね。フラ語、難しいもんなぁ。そんでもって役立たずだし。

仏文というより、文学部自体を目指す人が減少しているとも聞いた。 直接キャリアに結びつかないから経済やったほうがいいということなのかな。 キャリアを目指したり、大学のポストを狙ったりという気はさらさらないのですが、大学院にいる日本人の先輩たちが「日本に帰っても職などない」というのを聞いていると、なんだかなぁ・・・という気になってくる。

日本で大学を出てないわたしとしては、もうこれは体を張って何とか自活できるよう稼ぎ、残りの時間で翻訳を細々として行くしかないかと考えている。 体を張る仕事といえば、工事現場。 ヒゲとか生えてきちゃったら、どうしようかなぁ。 安全第一帽をかぶってみたいなぁ。 巨大な薬缶の口からそのまま麦茶飲んじゃったり、ワイルドなんだろうなぁ。

と、言ったら、友人に「いらないこと想像しすぎ!」とつっこまれました。

これって、性格かもしれない。わたしはよくどうでもいいことについて色々考えてしまう。

今わたしがやっていることも、日本で生きていく上では、かなりどうでもいいことばかりだ。 フラ語、ラテン語、古フラ語、仏文・・・ 唯一英語が役に立つかもしれないけど、専門じゃないからすごいいい加減。 はみ出た知識を抱えて、どうすんのさ、これ?と、なんとなく途方に暮れていた。 生きていて学んだことに無駄なことはないと人は言うけれど、収穫したものをむやみやたらに詰め込んでそこから何も生み出さなければ循環できないなーと思った。

しかし、この一見つながりの薄そうな手持ちカードをどうやって実生活で生かそうか? 知識は生かしてなんぼ。誰かに貰い、誰かに渡すという循環ができないものは、やがて滅びる。 「錬金術」か・・・やっぱり、そういう意味で「寝起きノート」に書かれていたんだろうか。

文学は、生きるために必要不可欠だとわたしは信じている。

読解という作業ははパラドックスだ。

文字で書かれたものを読んで、文字では書かれていないことを探り、心に埋め込んでいく作業だから。 この作業をまったく知らないまま世の中に出て、「数字」とか「名前」とか「言葉」という記号の中であやうく自分を見失ってしまうところだった。

私たちが使う「言葉」は、常に発信者の心の底の音色、声なき声を伝えている。それを敏感に感じ取ることができるからこそ、コミュニケーションは可能だし、皮肉なども通じることになる。 「言葉」は、記号でしかない。「いろは」の元となる万葉仮名は、中国の表記を日本人の使う音に合わせて作られた、音を伝える楽器のようなものだ。 その表記から意味を理解し、感情を読み取り、わたしたちは現在日本語を使っているけれど、

その文字を発しながら、文字自体が表現する意味をわたしたちは裏切ることだってできる。 「馬鹿」と言いながら、「好き」と伝えることだってできるし、「絶交!」と宣言することだってできるわけだ。

文章を読み取るというのは、自分ひとりの作業だ。 けれど、読みながら作者と相対するものだし、小説なら登場人物それぞれの心を探ることになる。試験で出された文章は、出題者はなぜこれを提示してきたのか、と考えることになるし、自分で本屋さんで選んだりした場合、そのときなんで自分はこの文章に惹かれたのかな、と探ることができる。読むのは一人かもしれないけれど、心を馳せる相手はたくさん居る。 白い紙の上に整然とした黒い部分を追っていくことだけでは、内容を半分「読み取って」いることにしかならない。 そこから立体的に文章を起こし、ぶつかっていくには自分の思考を使って

「なぜこう書かれているのか?」

「なぜこう読み取れるのか?」

と自らを練りこんでいかなければならない。しんどい。 「私は文系だから」と数字に対して私は常に逃げ腰だった。理由は、

「数学はひとつしか答えがない。国語はいくつも答えがある。マルかバツかだけじゃない。」

本当は、文学だって数学と同じだ。マルかバツか。 つまり、「読解」がおかしな方向へ走っていて、しかもそれが人を説得できないようであれば、「バツ」になってしまう。 そのときの状況、発信の仕方にもよるけれど、 彼氏の愛情のこもった「馬鹿」に、「なにさ!あんたのほうが頭ワルイじゃん!」と怒り出したとしたら、「バツ」。

文学は、社会生活全般で、人間関係の基盤を支えるためのこつを会得できる必要不可欠な分野だと思う。 文章という記号の底に流れる思いを読み取ることができるようになれば、人と人が生でコンタクトを取るときに、相手の感情をはずさずに読み取るのはずっと楽になるんじゃないかな。 そういうことがわかってくれば、読み取るだけでなく気をつけて発信するようになるだろうし、変に勘ぐったり、飾ったりする必要はなくなるし、相手を敬うってことは自分を大事にするのと同じだってことだってわかってくる。それを怠るから、何某衛門のようなことになるんじゃないかなあ。

「フランシスコ・ザビエルってバイヨンヌ出身らしいよ。バスク人だってよ。ところでバイヨンヌ地方ってナントに近い?」

久しぶりの電話の向こうの噺家は、すでにどうでもいい知識で飽和状態のわたしに、容赦なくどうでもいい知識を提供する。 (彼のフランスに対するイメージはザビエルに象徴されているのかもしれないという、一抹の不安のようなものも感じる。)

「自分がさ、本当に必死になってやったってこと、やることができるんだってことがわかっただけでも、フランスで勉強した意味があったってわかったの。だから苦労もできるし、色々考えなくなった。結果が思わしくなくてもいいんだ、もう。」

と言ったら、彼は

「おー!一皮剥けたな!いや、剥けましたね!」

あんまり「剥けた」と連呼されて、なんだか、冒頭の工事現場でヒゲの生えたおやじな自分が蘇って来てしまった。

当世日本語気質

今日の小ネタ。

よく寝起きに、哲学的思想とか、思いつきとか、考えても答えが見つからなかったこととかが、まるでイタコかお前は!という位にふっと「降りてくる」ことが、わたしにはとてもよくあります。

寝床のある桟敷(ロフトと大家は言い張るが)から降りた時点で、寝ぼけた頭がはっきりしてくると、そういうかけがえのない「思いついちゃった!」は霞のように消えてしまうので、忘れないように枕元にはいつもメモ用のノートと鉛筆がある。

先週、シーツを換えるときにふとそのノートを見たら、死にそうな字で 「錬金術」 と書いてあった。 どうしたらいいのか、困惑しています。 寝ている間に何かやっちまっていないといいのですが。

えー、もう耳タコです。ほんと。 あたぼうよ、べらぼうめ、こちとらぁ江戸っ子でぃ、とまーれー、いずれへ参る、控えておれぃ、近藤さま、近藤さま! 今、あたくし日本語でしゃべると変な江戸言葉になりそうなんでございます。

DVDが届いたんで始めました、落語翻訳字幕。「なんと寄席」の第一歩。 まずは元本として日本語字幕を作るため高座を文章に起こしているので、好む好まざるに関わらず同じ演目を何度も聞いている。多分一日3回以上は聞いている。 つくづく思うのが、日本語を勉強したい人には落語は本当にすばらしい教材だなぁということ。

なんとなく聞いてアハハと笑って、いろんなことを知る。それも、本の知識なんかじゃなくて、体当たりで。昨今の文化を同時に仕入れることが出来る。生の日本語で。 日本語を知っていたってわからないことはたくさんある。 特に時事ネタだったりすると、日本語が母国語であっても言葉として耳に入ってこない場合もある。 本気で日本語がしゃべれるようになりたいと思っているフランス人のみなさまには落語はお勧めです。 フラ語をしゃべれるようになりたいと思っている日本の方にも、同じく。

最近、本当によく思う。母国語できちんと「考える方法」を知っていなければ、語学(趣味ではなく、本当に使いこなせるようになるレベル)は難しいということ。 結局、問われているのは何語であろうと 「で、あんたはどう思ってんのさ?何が言いたいのさ?」 なんだから。

かつては日本語でなら言えるのに~!!!と思ったりしていたけれど、それは実は言葉の仮面にだまされているだけの話だった。私は、前回も言ったとおり日本語が下手。 さらに、アルファベット圏の言語の仕組みでは「私はこう思う」とストレートに表現せざるを得ないけれど、主語をあえてあいまいにして空気に乗せて伝える日本語は、言語力と共に、コミュニケーション力がもっと必要になるような気がする。

だから、フラ語の感覚そのままでしゃべって日本人に「けんかを売っているのか?」と誤解されたりする。 ただ、主語をはっきりさせてしゃべる癖が付いているだけなんだけど、それだけでもものすごい自己主張になる。 昔は、そういう日本語の「奥ゆかしさ」が、「あー、はっきりしろよ!」とイライラして好きじゃなかった。 フランスに来た当初は、かぶれて「お酌は男がするべし!ワタシはしない。」なんて生意気なことも言っていた。大きな荷物を抱えて困っている女の人を見ても手助けしようとする男性がいないことに、「ひどい!」と憤慨した。

今は、日本が伝統としてずっと持ち続けて、微妙に時代に沿って変化している言葉も、男性と女性の微妙な関係や、周りに対する気遣いなども、本当に好き。 この「好き」は、一種「深い恋愛・友情関係」に似ている。 好きになれない部分も知っていて、改善するべきことだって見えているし、必要とあれば目をつぶったり、付き合ったり、面と向かって「そりゃいかん!」と言ったりできる。叱られたらごめんなさいといえる。

美しいところばっかりじゃなくて、おならしたり、腹が出てたり、貧乳だったり、親父ギャグ連発だったり、酔っ払いだったり、あほだったり、うっかりだったり、 そういうのも含めて「愛情が許す」という感じ。

自分の母国をこういう風に感じることが出来るようになっただけでも、遠くまで来てよかったと思っている。 それに、結局何語でしゃべろうと、そこに表現する「気遣い」とか「マナー」とか「相手に対する意識」とか、そんなのって一緒なんだよなー。

シャワーを浴びながら、「お前は何だってそんな無駄に明るいんだ?」という番頭さんのせりふをフラ語でなんて言ったら笑えるだろうと、ああ言ってみたりこう言ってみたり、そんな私はかなりやばい29歳。ま、こんな人も居てもいいではないか、広い世の中。

根本思想

ネットの心理テストサイトの結果。「恋人に謝るときの謝罪の言葉・行動」わたしの答えは、 芸をする。 絶対許してもらえそうにない。 ていうか、「今の芸が面白かったから許す」という懐の広いお方がいらっしゃったら結婚して欲しいです。 日本じゃ結構有名なものかもしれない心理テスト。去年帰国したときに教えてもらってみんなでやたら盛り上がった。 深く考えずぱっと思いつくままに、理想の相手の条件を5つ挙げて1番から5番まで番号を付けてください。 たとえば、①やさしい人②お金持ちの人③きれい好きな人、などなど。 答えは下。

答え 2番目に挙げた答えが、あなたの深層に潜む理想の相手の条件だそうです。 まりの2番目は「面白い人」でした。さて、当たっているのか・・・ ちなみに、教えてくれた友達の2番目は「次男」だった。うーん。

Cauchemar

中村吉右衛門の講演会に行った。吉っつあんは、午前の部と午後の部の合間の休憩時間に、しょぼい会議用デスクを組み立て端っこでガレットを売り始める。 手のひらサイズのホットケーキみたいなまがい物で、一枚2000円。高! しかも、メニューに書かれたガレットの中身の1つが「卵尽くし」。曰く、「鶏卵・鶉の卵・ダチョウの卵」 そ、そのまんまだ・・・。添えられた写真には大中小揃い踏みの目玉焼きさんたちがお目見えする謎のガレットが。 一緒に来た友達が、殿様が乗る籠についてのレポートを書いたと言ったら、ガレットを焼きながら吉っつぁまは大層喜び、ぜひ午後の部で発表をしてくれと友達に言う。 午後の部が始まって、教壇に立ったのは 三遊亭円楽だった。 という、悪夢を見た。 誰か、この、なんかもうどうにもならない夢の解釈をして下さい。 中村吉右衛門さんは、わたしが一番好きな歌舞伎役者さんで、鬼平犯科帳と言えばこの方以外には考えられない、そして、フランスのわが家に張られた「石川五右衛門」のポスターは、その昔、手に入れるために駅に張ってあるものをはがして逃げようかと、犯罪を覚悟するほどだった、そんな、日夜拝んでいるような方なのですが。(ポスターは歌舞伎座で正規に購入いたしました。) 円楽師匠もね、復活なさってようござんしたと、遠くから回復を喜んでいたんですけどね・・・。でも、わが愛・吉つぁんが、中身だけそのままで(といっても中身を知っているわけじゃないんだけど)、いきなり円楽の姿で出てこられたら、誰だって「ぶっしゅべー」(bouche bée、口をぽっかりあけた様子、つまり驚愕。)になります。 わたしの夢の筋が八方破れにドラマチックなのは元々だったけれど、この悪夢?はリストアップして置くべきだと思いました。

続 はじめての落語 志の輔ひとり会

  日本のすごいものを、フランスに居ながら体験してしまった。しかも、LIVEで。そこがすごい。 ほぼ日刊イトイ新聞&第2日本テレビPresents 続 はじめての落語 志の輔ひとり会 インターネット中継で、高座の合間に特設こたつステージでの立川志の輔と糸井重里の落語対談。 志の輔師匠はフランス時間で朝7時位から午後17時位まで途中ほんの1時間ばかりの休憩を挟んでしゃべる。 落語をやり、こたつで語り、舞台の袖に戻ってきて今度はインターネットを見ている人に向かって語る。 舞台から降りてきた志の輔師匠を見て、はじめて落語家ってかっこいいと思った。 「すごい」とか「うまい」とか「いい」とか思ったことはあったけど、 「かっこいい」はなかったなあ! しかも、インターネットでは高座を見ることが出来ないのに、戻ってきた面々の顔や師匠本人の顔を見るだけで、高座がすごかったんだなとわかるというのは、すごい。 高座に上がる前は食べないというので、どんどん消耗しているのが画面を通しても明らかだったんだけど、落語家が高座から降りてきた姿というのはあまり見る機会がないから余計に新鮮でした。   落語というものをちゃんと知ろうと思うようになってから、ようやく半年といったところだけれど、知れば知るほど不思議な世界だと思う。 こたつで二人が話していたことというのは、とてもシンプルで、知っていると人生が豊かになることだった。 志ん生の高座の録音で、長屋のおかみさんが「なんでダンナと結婚したのか」と聞かれて 「ん、だって寒いから」 というのだが、そう言えるっていうのは夫婦愛の究極だという話があった。 志の輔さんは、落語を通して人は、言葉そのものには見えてこないけれど伝わるものが確実にあるということを知る、と話していた。 それをどれだけキャッチできるかは、噺家の発信の仕方もあるけれど、お客さんの「こころのフィルター」がどれだけ繊細に出来ているかということ次第にもなる。 人は、笑う時も泣く時も怒る時も嬉しい時も苦しい時も、揺れる。 「感動」は、感じて「動く」。 この揺れを、わたしは実現したいんだと思った。 揺れた時、その振動の中から深いところに沈んでいる「自分」というものが、必ず現れてくる。その揺れは空間を伝わって人から人へ伝っていく。 そうして、ひとりひとりが揺れては自分を感じることになる。 わたしは、この先何に関わるにしても、誰と居るにしても、何を創るにしても、揺れていたい。ゆらゆら、ゆらゆら、心地よく笑っていよう。

そもそもの話

  このブログを記していく上で、「こころ」というものにもっと丁寧に向き合おうと思うようになったひとつのキーワードがある。それが、「Vis comica(ヴィス・コミカ)」 Vis comicaとはラテン語で、直訳すると「喜劇の力」。 わたしはこれを「笑いの力」と訳します。 わたしがこの言葉に反応したのには、まったく縁のないように見える二つのきっかけがある。   ひとつは、今わたしが学んでいる仏文。フランス文学は、やってみるまで美しく気取ったイメージしかなかったんだけれど、実際に生でぶつかってみると、こんなに「笑い」に知性を費やし、くだらないことに情熱をかけている、素晴らしいものだとわかった。 それを、祖先の古代ローマの人はすでに「笑いの力」として知っていた。 もうひとつは、落語。 落語を聴き始めて2ヶ月になる。知れば知るほど、なんだかよくわからない深みにはまるようだけれど、それでもいいんじゃないかとだらだら思う。 普段わたしたちは人を笑わせ、人と笑い合う力を持っている。 それは人の心を温め、動かす大きなエネルギー。 人生には、ちょっとがんばらないといけない場面がたくさんあります。 思うとおりに行かなかったり 誤解されたり 傷つけてしまったり 悲しい思いをしたり こんがらがってしまったり 離れてしまったり そんな時、落語の持つ「笑いの力」に助けられた。 笑う時、人には明かりが灯るような気がする。 小さくても、ぽうっと明かりがつけば、自分の周りに誰かがいるということがわかる。それは、繋がりを見つけるということ。 自分がどこにいるのか見失ってしまった時、 自分の明かりを頼りに出来ればいい。 そしてそれが、誰かの道しるべになったらいい。 わたしが、誰かの明かりに助けられるように。