日本の大学から仏文が消えつつあるらしいですね。フラ語、難しいもんなぁ。そんでもって役立たずだし。
仏文というより、文学部自体を目指す人が減少しているとも聞いた。 直接キャリアに結びつかないから経済やったほうがいいということなのかな。 キャリアを目指したり、大学のポストを狙ったりという気はさらさらないのですが、大学院にいる日本人の先輩たちが「日本に帰っても職などない」というのを聞いていると、なんだかなぁ・・・という気になってくる。
日本で大学を出てないわたしとしては、もうこれは体を張って何とか自活できるよう稼ぎ、残りの時間で翻訳を細々として行くしかないかと考えている。 体を張る仕事といえば、工事現場。 ヒゲとか生えてきちゃったら、どうしようかなぁ。 安全第一帽をかぶってみたいなぁ。 巨大な薬缶の口からそのまま麦茶飲んじゃったり、ワイルドなんだろうなぁ。
と、言ったら、友人に「いらないこと想像しすぎ!」とつっこまれました。
これって、性格かもしれない。わたしはよくどうでもいいことについて色々考えてしまう。
今わたしがやっていることも、日本で生きていく上では、かなりどうでもいいことばかりだ。 フラ語、ラテン語、古フラ語、仏文・・・ 唯一英語が役に立つかもしれないけど、専門じゃないからすごいいい加減。 はみ出た知識を抱えて、どうすんのさ、これ?と、なんとなく途方に暮れていた。 生きていて学んだことに無駄なことはないと人は言うけれど、収穫したものをむやみやたらに詰め込んでそこから何も生み出さなければ循環できないなーと思った。
しかし、この一見つながりの薄そうな手持ちカードをどうやって実生活で生かそうか? 知識は生かしてなんぼ。誰かに貰い、誰かに渡すという循環ができないものは、やがて滅びる。 「錬金術」か・・・やっぱり、そういう意味で「寝起きノート」に書かれていたんだろうか。
文学は、生きるために必要不可欠だとわたしは信じている。
読解という作業ははパラドックスだ。
文字で書かれたものを読んで、文字では書かれていないことを探り、心に埋め込んでいく作業だから。 この作業をまったく知らないまま世の中に出て、「数字」とか「名前」とか「言葉」という記号の中であやうく自分を見失ってしまうところだった。
私たちが使う「言葉」は、常に発信者の心の底の音色、声なき声を伝えている。それを敏感に感じ取ることができるからこそ、コミュニケーションは可能だし、皮肉なども通じることになる。 「言葉」は、記号でしかない。「いろは」の元となる万葉仮名は、中国の表記を日本人の使う音に合わせて作られた、音を伝える楽器のようなものだ。 その表記から意味を理解し、感情を読み取り、わたしたちは現在日本語を使っているけれど、
その文字を発しながら、文字自体が表現する意味をわたしたちは裏切ることだってできる。 「馬鹿」と言いながら、「好き」と伝えることだってできるし、「絶交!」と宣言することだってできるわけだ。
文章を読み取るというのは、自分ひとりの作業だ。 けれど、読みながら作者と相対するものだし、小説なら登場人物それぞれの心を探ることになる。試験で出された文章は、出題者はなぜこれを提示してきたのか、と考えることになるし、自分で本屋さんで選んだりした場合、そのときなんで自分はこの文章に惹かれたのかな、と探ることができる。読むのは一人かもしれないけれど、心を馳せる相手はたくさん居る。 白い紙の上に整然とした黒い部分を追っていくことだけでは、内容を半分「読み取って」いることにしかならない。 そこから立体的に文章を起こし、ぶつかっていくには自分の思考を使って
「なぜこう書かれているのか?」
「なぜこう読み取れるのか?」
と自らを練りこんでいかなければならない。しんどい。 「私は文系だから」と数字に対して私は常に逃げ腰だった。理由は、
「数学はひとつしか答えがない。国語はいくつも答えがある。マルかバツかだけじゃない。」
本当は、文学だって数学と同じだ。マルかバツか。 つまり、「読解」がおかしな方向へ走っていて、しかもそれが人を説得できないようであれば、「バツ」になってしまう。 そのときの状況、発信の仕方にもよるけれど、 彼氏の愛情のこもった「馬鹿」に、「なにさ!あんたのほうが頭ワルイじゃん!」と怒り出したとしたら、「バツ」。
文学は、社会生活全般で、人間関係の基盤を支えるためのこつを会得できる必要不可欠な分野だと思う。 文章という記号の底に流れる思いを読み取ることができるようになれば、人と人が生でコンタクトを取るときに、相手の感情をはずさずに読み取るのはずっと楽になるんじゃないかな。 そういうことがわかってくれば、読み取るだけでなく気をつけて発信するようになるだろうし、変に勘ぐったり、飾ったりする必要はなくなるし、相手を敬うってことは自分を大事にするのと同じだってことだってわかってくる。それを怠るから、何某衛門のようなことになるんじゃないかなあ。
「フランシスコ・ザビエルってバイヨンヌ出身らしいよ。バスク人だってよ。ところでバイヨンヌ地方ってナントに近い?」
久しぶりの電話の向こうの噺家は、すでにどうでもいい知識で飽和状態のわたしに、容赦なくどうでもいい知識を提供する。 (彼のフランスに対するイメージはザビエルに象徴されているのかもしれないという、一抹の不安のようなものも感じる。)
「自分がさ、本当に必死になってやったってこと、やることができるんだってことがわかっただけでも、フランスで勉強した意味があったってわかったの。だから苦労もできるし、色々考えなくなった。結果が思わしくなくてもいいんだ、もう。」
と言ったら、彼は
「おー!一皮剥けたな!いや、剥けましたね!」
あんまり「剥けた」と連呼されて、なんだか、冒頭の工事現場でヒゲの生えたおやじな自分が蘇って来てしまった。