風邪をひいたようで、先週からなんとなく不調だったのだけれど、一昨日は咳がひどくなったので、一日中ごろごろして、生徒さんから借りた「杖と翼」(木原敏江 小学館文庫)を読んでいた。フランス革命後の恐怖政治時代を舞台にした漫画。マリー・アントワネットが「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいのに」と言ったという間違ったエピソードが使われていたけれど、なかなか面白い。
(実際は、三流新聞(かわら版)によるマリー・アントワネットの「つるし上げ」の中で、あることないこと書かれまくった中のネタのひとつ。本当は王妃のとりまきの貴族のひとりが言ったらしい。)
前期の授業が山場を迎えていた頃、提出課題を添削していた時、2人の学生が偶然同じことを書いていたのを発見して、もやもやした。
「Je n'aime pas la lecture. (読書が嫌いです。)」
まあ、好みについて書くという課題だったから適当に書いたのかもしれないけれど、心にちらとでも思わないことを書けるはずはないので、そういう心持ちがあるのだろう。
これと同じことが、ナント大学にいた時にもあった。語学学校のカリキュラムを卒業して、学部の方に入ろうとしている人に、なんでその学部を選んだの?と聞いたら、上記の学生と同じ答えが返ってきた。本を読むのが嫌いだから、私のいる文学部なんかはちょっとね、と。
そのときのわたしは、現文学科300人のフランス人学生の中でたった一人の外国人学生として、ほとんどの科目で落ちこぼれていたため、余裕のよっちゃんというものがナッシングで、トゲトゲしていた(そうやって尖っていなければ、つぶれそうだった)から、「読書が嫌い」と当たり前のように言う友人に対して反発のような、軽蔑のような、やりきれない違和感を感じた、というのを思い出した。
その時も、今も、なんで読書が嫌いだという人に対して、こういうもやもやした気持ちになるのだろう。
例えば、彼らが「イグアナが嫌い」とか「コーヒーが嫌い」とか「あたりめが嫌い」とか言うのに、同じような感情は湧かない。単にごく個人的な好みを言っているだけだから、こちらは「あ、そうですか。」と挨拶して、その人に対しては、あたりめをかじりながらイグアナを連れて「コーヒーでもどう?」とかうっかり誘わないように気をつけるだけだ。
でも、それを言ったら「読書」だって「音楽」とか「スポーツ」とか「登山」などの個人的な趣味の問題なのだから、なにもわたしが感情を害する必要なんか全くないのに。
ところで、小学生の時からの習慣で、わたしは本を常に3~4冊同時に読んでいる。右目で一冊、左目でもう一冊、額の目で三冊目、余裕があれば背中の目で四冊目。
・・・今、数えたら7冊だった。あと、どこの目を使おう(まだ言うか)。
(① 村上春樹のインタビュー集(今頃) ② 町田康「この世のメドレー」③ Tracy Chevalier 「La jeune fille à la perle」④ 「イメージの文学史」シリーズから「動物の謝肉祭(澁澤龍彦 監修)」⑤ 高田渡「バーボン・ストリート・ブルース」⑥ 那州雪絵「ここはグリーン・ウッド(白水社文庫版)」⑦ 「世界は分けてもわからない」福岡伸一 ・・・読書が好きというより単に欲張りな性格が露呈。)
外出する時に本を携帯するのを忘れたりしたら、心の支えを失って挙動不審になり、出先で一冊買ってしまう。上記の彼らからすれば、わたしなんかは理解不能というか、もう完全なるど変態だね。
そうか。自分の「好き」なものを否定されて、さびしいのかもしれない。わかってもらえなくて、かなしいという気持ちが、相容れないことを言うひとに対する一種の「攻撃」として、イライラしたり、軽蔑したりする形になって現れているのかもしれない。
それにしても、読書嫌いで学生をやるってのは、物凄く大変なのではなかろうか。どの学部でも教科書やら資料やらを読まされない日はないし、基本的に読むのが嫌いなのでは、勉強もはかどらないだろう。
いやいや、雑誌や漫画は読むし、ネットでニュースや友達や芸能人のブログを読んだりもするよ。と、言われるかもしれないが、その「読む」力と「読書」力とは、全然動かす「筋肉」が違うのだと思う。
ネットで読める日本語のニュースや、雑誌や、このブログのような一般的な「日記」ブログや、ハウツー本は、ほとんど頭を使わないで読める。高度なレトリックを使って書かれているわけではないし、事実を分かり易く書いている。1次元あるいは2次元的読解で済む。 ニュースになっている出来事には、テレビのコメンテーターやニュースにコメントする無数の匿名の人たちのそれらしい意見が溢れている。漫画には、頭を使わないと読めないような作品もあるけれど、美しい絵が補ってくれる分、こちらの想像力を使わなくていい。
ただ、口を開いて待っていると、よく噛み砕かれて流動食のようになった情報が勝手に流れ込んで行ってくれる。だから、噛んだりする必要なし。メディア・リテラシーってのがあるラシーけど、もうあごが退化しちゃったから、それ、噛めねーよ。ふがふが。
村上春樹がこんなことを言っている。
ただ若い人々には多くの場合、「チェッキング・システム」のようなものがまだ具わっていません。ある見解や行動が、客観的に見て正しいか正しくないかを査定するシステムが、彼らの中で定まっていないのです。そういう「査定基準」みたいなものを彼らに与えるのは、我々小説家のひとつの役目ではないかと僕は考えています。もしその物語が正しいものであれば、それは読者にものごとを判断するためのひとつのシステムを与えることが出来ると僕は考えます。何が間違っていて、何が間違っていないかを認識するシステム。僕は思うんだけど、物語を体験するというのは、他人の靴に足を入れることです。世界には無数の異なった形やサイズの靴があります。そしてその靴に足を入れることによって、あなたは別の誰かの目を通して世界を見ることになる。そのように良き物語を通して、真剣な物語を通して、あなたは世界の中にある何かを徐々に学んで行くことになります。 村上春樹 著「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2009」p.19-20 2010年 文芸春秋
これって、読書だけではなくって、自分にとって未知のあらゆる活動が「他人の靴に足を入れること」なんだろう。 語学は「育ってきたものとは違うシステム」で考え、理解し、表現する、それこそ「他人の靴」に足を突っ込むだけではなくて、それで歩いたり走ったり踊ったりしなくちゃならない。履き慣れないからよく転ぶし、余計な飾りがついていたりすると腹もたつ。けれど、それを履いている時にしか見えない風景があるから、我慢してならして、だんだん自分の足に馴染ませて行く。
読む力というのは鍛えれば鍛えるほど、次元が広がって行く。物語が、言葉が、3次元、4次元に広がって行く。その風景は、毎日地味に言葉を掘り起こして、「どういうことだろう?」「この意見はほんとうなんだろうか?」「自分はどう意見を述べればいいだろうか」と深く穴を掘って行く、ことばを何度も噛んで確かめることで、だんだん見えてくる。今まで地べたにいたから見えなかった地上絵のような文の骨組みも、ぐんと上空から眺めて、見抜くことが出来るようになる。
今、起こっていることに対して、様々な人が様々な意見を言っている。教育は盛んに「規格からはみ出してはいけません。でも個性的な意見が言えるようになりなさい」と矛盾したことを言って急き立てる。一見すると論理的なことを言っているような気にさせる話術が上手な人にばかり、スポットが当たっている。なんでこんなにうじゃうじゃと溢れているのかというと、人の意見を1次元的にしか理解できない人が増えているからだと思う。だから、3次元・4次元的広がりのある文脈でメッセージを放っている人の意見も、自分が見えている平面しか見えないから、「お前の言っていることは間違っている、頭おかしい」と噛み付く。見えないから、かなしくて、怖くて、噛み付く。だから、それよりちょい複雑な2次元的メッセージを大きい声で怒鳴っている人に「この人の言うことは、すごい。」と騙される。
今現在のわたしたちの世界に本当に必要なのは、「理解する力」「聞き取り、読み取る力」なのだと思う。力がある人は、薄っぺらい論理を見抜くことができるし、そもそもそういう詭弁を発信してもすぐ見破られるから、ミオップな(近視眼的な)意見を言ったりできなくなる。
「本を読むのが嫌い」という人が増えていることに、とても危機感を感じて書いてしまいました。語学の観点から、よく読んでいる人は綴りを間違えない、とか、語彙が豊富になる、とか、具体的な効能についての話しもありますが、それはまたいずれ。