先生も、生徒だった。
しかも、落ちこぼれ。
こ こにもだいぶ昔に書いたことがあったけれど、わたしがナント大学文学部で受けた最初の授業というのは生徒のオリエンテーションのようなもので、300人ほどの生徒一同が階段教室に集まり、「講義の受け方」のようなものを伝授される。 (フランスの大学には「入学式」だの「卒業式」だのは存在しない。) この時、壇上に上がったのが、現在ナント大学文学部現代文学学科の元締め、マリー・ル・ブラン教授。レベルは足元にも及ばないが、同じ「enseignant(教える人)」というカタガキの上で、女性として、そして人として、心から尊敬し憧れる人。 彼女、事故によるものなのか生まれつきなのかは知らないが、顔の右半分が潰れている。目の上の肉が溶岩のように頬に向かって流れ出し、ひさしのようになり、かすかに唇は引きつっている。 衝撃だったのは、しかし、その傷ではなくて、彼女の細い身体からあふれる「教える」ことへの情熱(パッシォン)と、温かさ、そして朗らかさ、凛々しさ。 自分の命に心から感謝し、生きているだけでうれしくてしょうがない、鼻歌が自然にでてしまいそうな、そんな印象だった。彼女を見ているだけで心が和んでにこにこしたくなってくる。C'était de la magie(魔法だ)...!! わたしの配属されたTD(Travaux Dirigés、30人ほどのクラスでの授業)は残念ながら彼女のグループではなかったので、後にも先にもこのオリエンテーションが唯一受けた「授業」だった。大学の講義のスピードに耳がなれておらず、しかもディクテ(口述筆記)にもさっぱり着いて行けていなかったわたしは、今思えば内容の3分の1も聞き取れていなかったかもしれない。けれど、後になるまでずっと「授業の指針」のようなものとして残っていたのは、 「わからないことをノートに取りなさい」というアドヴァイスだった。 これは、一見矛盾しているような助言で、しかも「生徒の生理」に反したものだ。 わたしたちは聞き取ったり読み取ったりしたものをメモすることはできるが、ちんぷんかんぷんなことをメモることは不可能だ。なぜなら、脳みそで処理できない内容は単なる「雑音」でしかなく、意味のある内容としてひっかかり、残っていくことができないから。 それまでのわたしのノートのとり方というのはなんだか目的の筋が違っていて、 「とることに意義がある!」という、妙なオリンピック精神(「参加することに・・・」)を振りかざしたようなものだった。 わかるから、メモる。わかっていることの証のようなもの。 しかし、ル・ブラン先生の言う「わからないことをメモしなさい!」というのはそれの真逆を行くことで、自分にとって未知の内容を片っ端から書き綴る、例えてみれば、ドという音がわからないのに楽譜に書け!というわたしにとっては無茶なものだった。 ノートをとる上で、知識として知らないというインテリジェンスの問題の前にわたしの前に立ちはだかるのは、「単語」としてのフランス語がわからないということ。 話の前後から予測して単語をはめ込んで行くしかないのだが、その単語自体にお目にかかるのが人生初だった場合、耳で聞き取った単語の発音から当てはまりそうな綴りを割り出し、家に帰ってから調べるとか、友達に聞くとかする。綴り自体が予測できそうにないものだった場合、最終手段としてカタカナでノートに書いておく。 新しく覚えた単語や言い回しは、やはり文学部で使われるようなアカデミックな代物が多いので、カッコイイから(あほらし・・・)なんとかして使ってみたくて、次の小論文には入れてやろと、ほくそ笑む。怪しい・・・。 やたらと時間がかかってしまうが、苦し紛れに編み出したこの手法は耳の訓練になり、日本人には聞き分けずらい発音が、音として認識され聞こえるようになり(いまだに空耳も多いが)、音とアルファベットの羅列がパターン化されるので、綴りから意味を予測できて単語を覚えるのも早くなる。 さて、こんな様相でみんなと同じリズムでは進めず、人の倍時間がかかる落ちこぼれだったわたしですが、フランス人の元cancre (un, 劣等生)代表(?)の落ちこぼれっぷりは生半可なものではありませんでした。 今年のRenaudot賞(フランスの栄誉ある文学賞のひとつ)に選ばれたのが、ダニエル・ぺナックの Le chagrin d'école (直訳すると「学校(時代)の哀しみ」)。アマゾンで注文していたのが届いたので読み始めているが、この人は子供時代にABCを覚えられず(特に大文字が嫌いだった!らしい)、ノートを取っていてもアルファベットが最後はこうなる↓ アルファベットの「b」が小人になって自由自在に駆け回る。この「ひと」達、今でも作者は愛して作品の献辞に使ったりするらしい。 ダニエル・ぺナックは元教師で、読書の10の権利を記したComme un romanという作品が有名。本をひたすら読むしかしないという授業で落ちこぼれ学級を及第させてしまった。本人はバカロレアを3,4度落ちているらしい。 そこまで激しくはないもののわたしにも経験があるので、その「哀しみ」がわからない「教師」に切り捨てられた痛さがよくわかる。 教える人は、必ずしも完璧である必要はない。もし、そうであるべきだとしたらこの世に「先生」は一人も存在しない。 いい指導者とは、たくさんの知識を持っている人のことではなく、たくさんの指導者を生み出す人だ。 落ちこぼれ出身のわたしにとって、常に支えになっているこれらの言葉が、ぺナックを読んでいると浮かんでくる。