お詫びと訂正。11月20日に駅南エリアに配られた新潟日報good morning !!において、e-corの生徒募集が掲載されていましたが、
そちらのお問い合わせ電話番号下四桁が間違っておりました。
正しくは 5751 になります。
大変ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。
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フランスから戻ってきて、親友と仲違いをした。 「どうしようもない時」というのはあるもので、 それぞれの人生に対するものの見方、「見つめる」所がまったく食い違ってしまったのが主な理由だった。 たとえて見れば、私は「陽」を見つめ、彼女は「陰」を追い求める、それがお互いに気に食わん、ということになる。 本来ならば、陰陽は正反対ながらも融合するもので、お互いの視線の先がどこを照らそうとそれはそれで、その差異を楽しめて初めて「仲」というのは成立するのかもしれないけれど、様々な要素がからんで、いつの間にかそう楽観できなくなってしまった。 と、思っていた。 小銭を作るのに、たまたま坂口安吾のエッセイ集を買って、実は私自身が大きな「演出ミス」をしていたんじゃないか、と気づくことになった。 18世紀のフランスで、良俗に反すると出版禁止を食らった「危険な関係(Les liaisons dangereuse)」という書簡小説(手紙だけで構成されている小説)がある。 作者はコデルロス・ド・ラクロ。 メルトゥイユ夫人は、愛人が自分の年若い従姉妹の結婚相手になったということがわかって、己の嫉妬心とプライドから、悪友で「たらし」のヴァルモン伯爵に従姉妹を寝取ってしまえとけしかける話。 このヴァルモンとメルトゥイユというコンビは非常に危うい関係で、お互い好き合っているのだけれどそれをストレートに言ってしまうくらいなら死んだほうがマシというねじれ具合。そのねじれは多くの人を巻き込んでしまうトルネードのようで、一度スタートしたらあとは坩堝に向かってまっしぐら。 序文で、出版社側、作者がそれぞれ読者に向けた「注意書き」のようなものを記していて、それが真っ向から食い違っていて面白い。 出版社側は「この作品はあくまでフィクション」だと言い張り、しかし、その次の作者の言い分ではしきりに「これらの手紙は」とか、「書き手それぞれの文法的な・またスタイルの誤り等について作者はできるだけ手をくわえないようにしてある」とか、登場人物すべてが存在することを仄めかす書き方。 安吾はもともと、小説というものは作者の「思想」と「戯作性」がミックスして出来上がっているものだという説を唱えているのだけれど、ラクロの「眼」に着目して、「危険な関係」において、作者は自身の「思想」というものを全く廃した「眼」で見つめ、書いていると言う。作者自身の「思想」が見え隠れしないからこそ、「二百余年の時間的隔たりにも拘わらず、最も近代を思わせる」のだと。 小説家に拘わらず、私たちは「思想」をもち、「戯作性」を発揮して生きているのかもしれない。 生きていると肩書きが色々できて来て、「会社員」「上司」「部下」「取引先の人」「お客さん」は、家に帰れば「バカ息子」だったり「おとうさん」だったり、「妹」、「隣の人」、そして誰かの「愛する人」だったりする。 人の集まる輪の中で、「やり手」だの「天然」だの「いじられキャラ」、「つっこみ」だのという個人の「スタンス」にも役割が与えられる。私たちは、知らず知らずこのレッテルに追いかけられ、格闘をしているのかもしれない。 本人が心から納得して「バカ息子」とか「いじられキャラ」だったら演じ甲斐もあるけれど、現代人の悩みの多くは 「ほんとうの私は、こんなじゃない」 という、「思想」と「戯作」のズレから来ているんじゃないか、と思った。 演出ミスというやつ。 だけど実際には、「周り」の流れに巻き込まれていまさらカミングアウトなんてできる勇気もなかったり、そもそも自分が「がんばって周囲に合わせている」ことに気がつかないでいたり。 がんばることをやめた私は今、安吾の見たラクロの「眼」が欲しいと思う。 安吾がよく言っている「心眼」というものが、欲しいと思う。 娑婆から遠のいて禅の修業で出来上がるものもあるかもしれないが、私はラクロのような、とりあえず全て、「良俗」であろうがなかろうが「肯定的に見る」眼が欲しいと、今思う。 端くれではあるが、私のように外国語を教える立場のものは言葉というものを考え、伝えていく中で、言葉の持つきらびやかな装飾に目を眩まされてその下に息づく魂に気づかないという危うさがある。それを見極められるのは、「心眼」でしかない。 「情痴作家」の言う「人間を直視する」ことを恐れてはいけない。ありのままを見て初めて「良」も「悪」もわかるのだから。